行って、耽美的な「刺青」(谷崎潤一郎)、題そのものが作品の色どりを物語っているような三重吉の「千代紙」「赤い鳥」、夢幻的な気分で貫かれた秋田雨雀の作品、小川未明の作品などに、次代の声々をあげはじめたのは、何故であったろうか。そこには、漱石が、「自然派伝奇派の交渉」で語っているように、自然主義とロマンティシズムとは「対生に来る――互いちがいに来るのが順当《ノーマル》の状態」というばかりで説明され得ないものがあった。明治四十三年に出た永井荷風の「冷笑」の序はこういう一節をもって現れた。「自分の著作『冷笑』は享楽主義をのみ歌ったものではない。寧ろ享楽主義の主人公が風土の空気に余儀なくせられて、川柳式のあきらめと生悟りに入ろうとする苦悶と悲哀とを語ろうとしたものである。」嘗て誰よりも早くゾライズムを唱えた荷風は、こうして社会批評の精神の放棄を自ら告げているのであるが、彼をこめての当時の若い作家たちの生活感情には、四十三年の幸徳事件以後、日本の社会に猛威をふるいはじめた反動保守の力が、微妙で強力な作用を及ぼした。当時は、科学書『昆虫社会』という本が「社会」というおしまいの二字のために禁止されたと
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