本の常識のなかにある美の感覚も余ほど自由に解かれたことが思われるのである。そして、このことは『明星』のグループとして活躍し藤島、石井その他当時の若い印象派の洋画家たちの熱心な美のためのたたかいの成果と切りはなしては考えられないことであろう。
 このようにして、漸々《ようよう》肉体の表現にも美をみとめるところまで来たロマンティシズムが、『明星』特に晶子の芸術において、女性みずからが自身の精神と肉体との微妙な力を積極的に高唱する方向をとって来ていることは、極めて注意をひく点である。
 たとえば人口に膾炙《かいしゃ》した「やは肌の」の歌にしろ、そこには、綿々たる訴えはなくて、自分からの働きかけの姿があり、その働きかけは、
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罪おほき男こらせと肌きよく
      黒髪ながくつくられし我れ
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という、自覚に立ってはじめて可能にされている。そういう晶子の情熱と自覚とはあくまでも感情的なものであったが、その特質を、鉄幹の「荒男神」的ロマンティシズムの根にあった現実性との結合で観察すると、「やは肌の」の歌も「罪おほき」の歌も、今日の読者には一種のいじらし
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