けり、さればこそことなる事なき反古紙作り出でても今清少よ、むらさきよとはやし立つる誠は心なしのいかなる底意ありてともしらず、我をたゞ女子《をなご》と斗《ばかり》見るよりのすさび、さればその評のとり所なきこと、疵あれど見えずよき所ありともいひ顕はすことなく、たゞ一葉はうまし、上手なり、余の女どもは更也、男も大かたはかうべを下ぐべきの技倆なり、たゞうまし、上手なりといふ斗《ばかり》その外にはいふ詞なきか、いふべき疵を見出さぬか、いとあやしき事ども也」とも書いている。
この評への評にも、当時のロマンティシズムの限界が間接にうかがわれる。鴎外も「たけくらべ」に対してはハルトマンの美学をひいての分析は試みず、一葉の完成とそこにある新しさの土台をなしている旧さを捉えず、当時擡頭しかけていた観念小説、社会小説の波に向って、我が文学陣の選手とばかり推したてたのだろう。
それならば、一葉自身「たけくらべ」に対してどんな客観的な自評を抱懐していたかと云えば、今日私たちがうなずけ得るのは、賞讚への不安と物足りなさの表現ばかりである。正面から異議ありという魯庵を、一葉はきらいな人という自分の感情だけで見て
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