ございますという事情だったから、そのお屋敷の内実は法事の費用にも窮するという有様だったのであろう。才八という「家来《けらい》」と母とが、法事らしいことも出来ないと泣いているのを、風邪でねている若い龍子はしみじみと聴いていた。
すると、その才八という「一寸|文《ぶん》のわかる男」が、風邪でふせっている令嬢の気ばらしに、「当時評判の坪内逍遙さんのお書きになった『当世書生気質』という小説本をもって来てくれました。私は、その小説をよんで居りますうちに、これなら書ける、と思いまして一いきに書きあげましたのが『藪の鶯』でございました。」
こうして出来た小説は、そのころ、春廼屋朧といった逍遙の序文、中島歌子の序文、作者の序文をつけて金港堂から出版された。原稿料三十三円二十銭という金は、二十五円の月給が立派に通用していた当時にあっては、大金であったろう。この金で、田辺家は亡兄の一周忌をすませ、田辺龍子という名は、その時代の若い婦人たちの目を見はらせ、若い婦人たちの間に女流作家志望の熱をまき起す刺戟となったのであった。
逍遙の「当世書生気質」という作品は、周知のとおり明治十八年に出た新しい文学への
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