いることを、感じない人があろうか。「河沙魚」にしろ「あいびき」にしろ、題材としては、戦争がひきおこした男女の間の苦しい乱れをとりあげつつ、作者は、持ち味としての詩趣[#「詩趣」に傍点]で、テーマを流し、苦悩への人間らしく、文学らしいまともな突こみをそらしている。嫁と間違いをおこしている田舎の農夫の爺について坂口安吾が自分について云うのと同じように、「相手が動物になってしまうと、もう与平にとって哀れでも不憫でもなくなる。意識はひどくさえざえとして来て、自分で、自分がしまいには不愉快になって来るのだ」と読まされるとき、読者は、明らかに愚弄された現実を感じる。孤児の運命、疎開中の家庭の崩壊、嫁舅のいきさつ。どれ一つとして、民衆の負わされている苦難でないものはない。国家の権力は、自分たちの権力でひきおこしたこれらの人間性の破壊を、どんな方法でも収拾しかねている。その今日人々が文学に求めるものは何であろうか。それが直接の解決でないからこそ、方便ぬきの真実をこそ文学に求めている。現実の錯雑と混乱を糊塗せず、そこを貫いて人間らしく生き得る人間真実の現実を文学に求めているのであると思う。小さく、境遇に
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