ての女に母性があるというならば、女らしい作品を要求されるのであるならば、男をこめての歴史的な傷とそれからの治癒の光となる文学が、婦人によって生れるのが妙なことであり得るだろうか。
 それにもかかわらず、既成の婦人作家の大部分は、彼女たちに文学の仕事を可能にしていた妻としての、或は経済的にも成功者としての境遇の条件にすがって、この数年間の婦人大衆の涙とうめきと、笑顔とから遠のいて暮して来た。そして、今日、悪出版の氾濫の流れにのって、その作品を流しはじめたとして、やつれ、皺をふかめた日本の女性の言葉すくない犠牲と、そこからの沈黙の立ち上りに、何の心のよろこびとなり得るだろう。
 戦争と一緒に国際結婚の問題、混血児の問題は、少数の家族の間にではあるが恐ろしい経験をもたらした。深い悲劇もある。中里恒子の「まりあんぬ物語」は、まだこの国際的な悲運、偏見、特に日本的な矛盾を、リアルに堂々と描き出し得ていない。その作者の特別な題材と特別な手ぎれいな風情の味わいとしての範囲に止っていることは遺憾である。
 また、林芙美子の今日において、彼女の特徴とされていた詩趣というものが、その文学のエレジーとなって
前へ 次へ
全369ページ中361ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング