の境地は、まざまざと当時の「人間復興」の不幸な本質をてりかえすものであった。いのちあふるる美しさとよろこびとは、それが人間生活のたゆみない営みの上に、何かよりよいもの、より幸福になる力としてふりそそぎ、つちかわれ育ってゆくからこそである。人間の溢るるいのちが、かの子の芸術におけるように、ひたすらに溢れ、夜もひるもあふれ虹を立て風にしぶきながら、しかもそれ以上は何の積極の作用も現実生活にもたらさない流転であるならば、旺なる横溢そのものに、哀愁が伴い虚無感が伴いそして恐怖がある。岡本かの子は、意味のわからない生命のあふれ、その浪費に頽廃と美しからざるものへの悲哀を感じれば感じるほど、一層はげしく一層身も心もうちかけて、現象的ないのちのあふれに美を装い、その人工のきらびやかさで暗さと恐怖をうち消そうとしたように見える。岡本かの子は、自分の心を休ませないそういう切ない熱望を、芸術的情熱という風に自覚し、更にそれを古風に、誇るべき家系の負担として語っている。それ故、かの子は、底に悲哀を湛えた自分のこころが追い求めている美への耽溺を、自己陶酔という評言で批評されることに反撥した。彼女の旺な生命力の
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