僅か半年で、その後は家で専心裁縫の稽古や家の手伝をしなければならなかった。
両親とも甲斐のひとで、母の瀧子というひとは稲葉家に仕えたことのある婦人であった。父の樋口則義は甲斐の大藤村の農家に生れたのだが、侍になりたい志を立てて江戸にのぼり、則義は菊池という旗本の家に入り、後は、八丁堀の与力浅井の株を買って幕臣になったという閲歴である。今井邦子の「樋口一葉」に、「則義氏は旗本菊池家に、母君は同じく稲葉家に仕えたが」とかかれているところをみれば、甲州のひとたちらしく辛棒のつよいこの夫妻は、夫婦ともどもに江戸に出て、江戸へ出た上は別れ別れに旗本だの士族だのの家に入って、侍になりたいという素志を貫徹したのであったらしい。
そういう経歴の瀧子が、夏子の母であったということは、一葉の一生を通じての娘としての苦衷と思いあわせ、私たちの記憶に刻まれる一事である。
明治初年に東京府のささやかな一官吏となった主人。やっと侍の妻になったかと思うと、もうその努力の結果は、歴史の怒濤に泡となって消え去ってゆくのを見送らなければならないような、かちきな母瀧子の生活感情には、開化の声が、快く希望を唆る響としてはきこえず、世相の浮き沈みとして反映したであろう。次女夏子を小学校にあげてみたり又すぐさげてしまったりする樋口家の家庭の空気には、二つ下の幼い女の児邦子をかかえた母の、安定のない気分が少なからず作用していたらしくも推察される。
樋口の家庭の明け暮れは、鹿鳴館の賑いなど思いもそめない風俗であった。瀧子は、昔ながらに、女の子に永く学問なんかさせると、ゆくゆく為によくないという方針で、夏子を躾けようとしていたのであった。
父則義は、侍になりたいと思った気持にしても、その底には好学の傾きも持っていた人らしくて、その点では必ずしも妻と同じように娘をみてはいなかった。どこか凡庸でない少女の眼差しや、心のうごきが察せられたとみえ、折にふれて和歌の集や物語本など買って与えたり、あれこれ歴史物語をきかしてやったりした。そして、到頭妻を納得させて、遠田澄庵という人の紹介で、当時閨秀歌人として、水戸の志士林の妻として女傑と称されていた中島歌子の萩の舎へ十五歳の夏子を入門させたのであった。
これが夏子の生涯の転機であった。花圃の思い出にのこっている赤壁の賦の場面は、一葉がそのようにして萩の舎に入門していかほどもない時分の一つの情景であろう。「女中ともつかず、内弟子ともつかず、働く人として弟子入りをした」と同門の令嬢たちが夏子の身分をことこまかに区別して観察しているところを考えれば、弟子というのは、十分な月謝や食費や衣類調度をもって師匠の許におき臥しする令嬢を云い、夏子の父は娘のためにそれだけのことはしてやれなかったのだと思われる。特に当時盛名を馳せ、華やかに語られていた中島歌子の貴族的な塾へ娘を入れるように骨折ったりしたことには、父として娘の才能にかける仄かな期待とともに、母の胸中には、昔、自分が甲斐の田舎から江戸の稲葉家に上ったときの心持のつながりもあったかもしれない。
一葉の父が亡くなったのは明治二十二年七月、一葉は十八の夏であった。その前年、官吏をやめた則義は友人たちと馬車会社を起したというのも当時らしく、またその会社が思うように行かないで、則義はそのごたつきの最中、亡くなったのもその人らしい時代の俤である。夏子の上には、兄が二人もいたのだが、彼女がやっと萩の舎に入門した翌年に長兄が病歿し、次兄はよそへ養子にやられていたので樋口家の相続の責任は自然夏子の肩にかかって来た。
父の歿後、一家はしばらく養子に行った次兄の許に身をよせたが、円滑にゆかなくて、一葉は自分だけ中島のところで暮した。その翌る年十九の夏子が母瀧子と十七の妹邦子とをひきとって、本郷菊坂につつましい一戸をかまえ、母娘三人の生活がはじめられたのである。
元来家産があったのでもない則義が亡くなった今、十九の夏子がいかに大人びていたにしろ、どんな方法で生計を立ててゆこうと計画したのだろう。一二年の間はどうやら女三人の生活は営まれたが、三年経った二十四年の秋には、初めて親戚の家へ三十円借金をしたことが日記に出ている。貧は次第にはっきり牙をあらわしはじめた。
花圃の「思い出の人々」のなかに、
「ある日歌の会が終って帰ろうとしておりますと、一葉さんが下駄をはいて玄関のそとまで送って来られて『私は大望をおこして、小説をかいて見たいと思うがどうか』という御相談をうけました。私は『書きたければ勝手にお書きになればいいんじゃありませんか』とにべもない返事をいたしましたが」云々と、当時自分自身の身辺がとりこんでいておちおち相談にものれなかった有様が飾りなく語られている。
花圃が「藪の鶯」をかいたのは明治二十
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