一年のことであった。それからひきつづいて「八重桜」だの「こぞの罪」だのという短篇を発表していたし、木村曙、小金井喜美子、若松賤子、竹柏園女史その他、婦人のものを書く人たちが少くなかった。そういう周囲の空気から心を動かされたことも無くはなかったろうけれども、一葉が「大望をおこして」と花圃のあとを追ってまでうちあけた一ことのうちには、ただ自分に小説をかくような才能があるだろうか、というような意味ばかりではない、犇《ひし》と迫った生活問題も考えられていたのではないだろうか。今井邦子の「樋口一葉」には、花圃の思い出として「一時間くらいしな[#「しな」に傍点]を作ってさんざんシネクネとした揚句帰る時に、あの、私、貴女様のお真似をしたいのでございますけれど、あの私のようなものがそんなお真似などをしたいなどと申上げるのはお恥しうございますわ」と云ってその日はそれでかえったということが語られている。これも同じ頃のことだろうか。こっちが前で、玄関の外までおくって出ての話は、心理的に見て、あとのことかもしれない。
 萩の舎門下の才媛たちの間で、「あゐよりあをし」と定評されていたのは花圃であり、その花圃と並んでその才幹を着目されているのが一葉であった。が、世渡りの道も十分以上に心得ていた中島歌子の萩の舎の女ばかりがつくりだす空気の裡では、一葉に対する気分にも、その才能に対する評価と同時の意地わるさ、彼女の境遇への不言不語の軽蔑があったとみられる。
「中島先生のところで、みんなから集めました筆代の二円がなくなりましたとき、一葉さんに疑いのかかったことがございました。『貧乏はつらい』と云って泣いておられましたから」花圃が覚えがないなら泣かなくともよい、下らぬことで泣くものではないと慰めるよりも叱ったことがあるということも語られている。身に覚えがないのならそんな下らないことに泣くに当らないと判断する花圃は、いかにも「藪の鶯」の作者らしい。そんな下らない疑などをかけられようもない立場の令嬢らしい口ぶりと、どこまでも常識にだけ立った合理性をしめしていて、この人らしい。けれども、一葉としては、泣かずにいられない皆のしうちがあっただろう。
 赤壁の賦のときの情景。そして、こういう涙をもこぼさなければならなかった周囲の空気。萩の舎門下の富貴な淑女たちから一葉が「ものつゝみの君」と呼ばれていたということも、そのような複雑な女同士の心理を背景としてみれば、肯ける。一葉が「一時間くらいしな[#「しな」に傍点]をして」、小説のことに触れるような触れないような話しかたをしたぎりで、かえって行った時のことを、花圃は、単純率直でない一葉の人柄の一面として見ている。それも当っているだろう。が、私たちが今日遠くはなれた明治のその時代のその環境において、十九か二十だった一葉のそういうとりなしを思いやると、そこには、花圃に泣くなんて下らないと云われても、おのずとせくりあげて来た一葉の涙があったのと同じ心理の翳を感ぜずにはいられない。
 たとえば、花圃に向ってしねくねとしながらの言葉づかいにしろ、同門の先輩への敬意というばかりで、ああいう口調になったのだろうか。「藪の鶯」のなかで、逍遙が最も傑出した部分として賞めている女学生たちの会話を見ると、当時でも開化の教育をうけた上流の令嬢たちはお互同士「アラ、よくってヨ。あんまりこもっているから、炭素を追出してやるんだワ。あんな口のへらないこと。」などという調子で喋りあっている。花圃の方ではお夏ちゃんと呼んでも、そのひとの屋敷のうちに田圃まであるような家を訪ねれば、一葉は、卑屈さからではなしに、私も小説をかきたいわ、とはあっさり云えない雰囲気のちがいを、敏感な心に感ぜずにはいられなかったのだろう。これは、時代のふるさ、一葉のふるさとばかりは云い切れないと思う。二人の若い女性は、とことんのところで全く別な二つの世界に住んでいたのだから。支配階級に属す人々の女選手としての花圃。名もない庶民生活に偶然芽生えた才能としての一葉。二人の間に共通な人生はありようなかった。
 二十四年の一月に「かれ尾花」というごく短い小説をかき、その四月には、題のつかないままのこされた習作一篇をかいた。その年の「森のした草」という随筆に「小説のことに従事し始めて一年にも近くなりぬ」と云われているから、一葉はその前の年ごろから、積極的にはげましてくれる友達もない中で、到頭小説をかく決心をしたものと思われる。「いまだよに出したるものもなく、我が心ゆくものもなし、親はらからなどの、なれは決断の心うとく、跡のみかへり見ればぞかく月日|斗《ばかり》重ぬるなれ。名人上手と呼ばるゝ人も初作より世にもてはやさるゝべきにはあるまじ。批難せられてこそ、そのあたひも定まるなれなど、くれ/″\もせめ
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