、「婦女の鑑」は当時にあって珍しい社会的な題材を扱っていた。
 擡頭しつつあった当時の日本の繊維産業と、その生産で女・子供が使役されはじめた状態が扱われたのは珍しいことであった。工場の給食や託児所という、働くものの福利施設のことが出て来ていることも珍しい。木村曙という作家は、彼女の若い女性らしい正義感によって、尨大な数になりはじめた「女工」生活の非人間的な条件を観察し、それへの抗議として、そんな題材へも及んだのであったろう。けれども文体や文学技法の上での不十分さから「婦女の鑑」は所謂有名な作品とはならなかった様子である。そして、表面開化しながら内実は封建性の暗さ重さに圧しつけられていた社会全般の生活は、木村曙によって文学に導き入れられたひろい社会的生産的題材というものを、つよく云えば数十年後の今日まで、婦人による文学の領域で発展させないままに来たのであった。

     二、「清風徐ろに吹来つて」
         (明治初期二)

 三宅花圃が昭和十四年の春ごろ婦人公論にのせた「思い出の人々」は、いろいろの意味から面白い自伝であった。花圃の幼年時代の生活が、倒壊してゆく幕府の運命の埃を、その肩に蒙るばかり近くあったせいか、同じぐらいの年配でも地方出身の人たちは使わない徳川「瓦解」とか「御一新」とかいう表現のうちに、江戸から東京への推移の感情を生々しくつたえている。その思い出のなかに、明治十九年の秋、中島歌子の「萩の舎」で催された九日の和歌の月並会での一情景が、語られている。
「出席して見ますと、みんなの前におすしを配っている、縮れ毛で少し猫背の見なれぬ女の人が居りました。私は江崎まき子さんと床の間の前に坐ってべちゃくちゃお喋りをしておりましたが、ちょうど私たちの前へ運ばれて来たお皿に、赤壁《せきへき》の賦《ふ》の『清風《せいふう》徐《おもむ》ろに吹来つて水波《すいは》起《おこ》らず』という一節が書いてございましたから、二人で声を出して読んで居りますと、若い女の人がそれに続けて『酒を挙げて客に属し、明日の詩を誦し窈窕《えうてう》の章を歌ふ』と口ずさんでいるではございませんか。
 私たちは、顔を見合わせて『なんだ、生意気な女』と思っておりましたが、その人が他ならぬ一葉さんで、会が終って、帰るときに、先生から『特別に目をかけてあげてほしい』とお引合せがございました。一葉さんは、女中ともつかず、内弟子ともつかず、働く人として弟子入りをなすった様子に見うけられました。」
 この数行をよめば、その時代の一葉の境遇が痛いように私たちの胸に迫って来る。
 当時、日本は明治初期の欧化に対する国粋主義の反動期に入っていて、上流の人たちの間には、一度すたれかかっていた和歌だの国文学の教養が再びやかましく云われはじめていた。中島歌子が経営していた萩の舎の歌塾は、佐佐木信綱の追憶などによってみても、当時は大した勢のものであったらしい。和歌の例会の日には、黒塗の抱え車が門前にずらりと並んで、筆頭には、その頃錦鶏の間祗候田辺太一の愛娘であった花圃をはじめ、名家名門の令嬢紳士たちが花の如く集って来た。森有礼の理想によって、女子の最高学府として設立された一つ橋の東京高等女学校のポスト・グラデュエート(専修科)に通っていた花圃は、そういう歌会の席でも、床の間の前に坐っていたというところに、おのずから置かれていた地位がうかがえる。それらのはなやいだ才媛たちがうち興じながら、何心なく誦した赤壁の賦に和した僅か十五歳の夏子の才走った姿も目に見えるようである。また、彼女のかくし切れない才が穂にあらわれたとりなしが若い貴婦人たちの感情へはいきなり「なんだ、生意気な女」と、つよく映ったというのも面白い。当時まだ「家来《けらい》」というものを日常身辺にもって暮していた上流の若い婦人たちが自分たちが坐っている前へおすしを運んで来るような身分の軽い少女に対して、風流の間にもはっきりと身分の差別を感じていたというのは、こわいように思える。
 一葉の二十五年の短い生涯を、貧窮が貫いたのは周知のとおりだけれども、この時分はまだ一葉の両親は在世であった。明治五年に、東京府庁の山下町の官舎で、樋口家の次女として生れた夏子は、六つで本郷小学校へ入学した。しかしそこはどういうわけかすぐ退学して、手習師匠のところへ通わされ、十四年に家が下谷に移ったのち、その冬から池の端の青海小学校に通学した。そこに通ったのも二年ばかりで、またやめて、翌十七年に、和田重雄という父の知人である歌人の門に入った。十三の少女は、
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いづくにかしるしの糸はつけつらむ
      年々来鳴くつばくらめかな
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という、生気のある愛くるしい歌をつくったりしている。そこに通ったのも
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