いて四十五年に発表した短篇「魔」から、俊子の名は当時の文学潮流の上に意味を有するものとなった。
小説がかきはじめられたのは、ずっと前からのことであった。
露伴の弟子となって露英という号で処女作「露分衣」という作品を『文芸倶楽部』に発表したのが三十六年と年譜に記されているのをみれば、それは俊子が十九歳ごろのことであった。小説ずきは子供時代かららしいが、露伴の弟子になったきっかけは、露伴の作品を読んだことからではなくて、「ひげ男」上演のとき、一方紅葉が「金色夜叉」の上演につききりでやかましく云っているのと反対に、露伴は一切無干渉だという新聞記事をよんで、「人格を敬慕するの余り、単独にてその門を叩きたるなり」と語られているところに、何かこの婦人作家の気質がうかがえる。
俊子は、露伴の人柄の抱擁力の大きさというようなものを心に描いて、その指導の中に自由な自身の文学的成長を期待したのであったろう。けれども、当時の露伴を文学の世界において客観すれば、既に保守に傾いていた作家である。俊子の天分を評価することから、却って彼女に月刊雑誌をよませず、古典文学だけを熟読させる、という結果にもなったらしい。作家としての露伴は、女性に対して、衷心になかなか優しい思いをもっていて、昔一葉が「たけくらべ」などを書いて、名声喧しかった頃、小石川の家を訪ねたとき、一葉に向って、早くお婆さんにおなんなさい、と云い、しかしそうだったらやっぱり寂しいだろうなどと云ったということが一葉の日記にしるされている。露伴は若い俊子を、自分の若き日の思い出の中に生きている一葉と全く切りはなして眺め得ただろうか。或る年の春、師匠露伴のくれた菫の小さい花束に、やさしい敬慕の思いをよせるような稚い淡い心持のなかで、露英も二三年は、一葉まがいの文章でいくつかの作品を書いた。この人は才分ある人なれども、斯の如きものを書くは気の毒なりと鏡花が、評したというのは、この時代のことであった。
やがて、そろそろ二十を超えようとする生活力の旺盛な俊子を新しい時代と新しい芸術の香りが動かしはじめた。彼女のぐるりにめぐらされている露伴の垣が彼女を苦しめ、自分のこれまでの作風にも嫌悪を感じさせるようになった。芸術の上で道を誤っていると感じて、毎日派文士劇の女優となったのは三十九年のことである。二十四のとき、当時米国から帰朝した同門の田村松魚と結婚する迄の俊子は久米八と同座したり川上貞奴の許に出入りしたりして女優生活を送りながら、新しい時代の文学の空気の中に生きていたのであった。「あきらめ」という小説は、選者であった抱月も云っているように、その一篇のなかにこの作者のあらゆる資質の芽と浅草蔵前の「昔の札差」という家に育った境遇の色どりがうちこまれている点で、興味ふかい作品である。白絽の襟を襟止《ブローチ》でとめ、重ね草履をはきお包みを片手にかかえながら、片手にもった扇子を唇に当てがって歩くという気分の女学生。その脚本が好評で上演されるようになったら、学校から悶着を出されたというような、当時の女子大学生の富枝をめぐって、複雑な下町風の人事のあや。芸者や踊の師匠の明暮の光景あれこれ。女優生活の裏や表までが、自然主義の作風に近い平面な組立ながら、耽美的な、又官能的な都会人の気分をこまかに追って描かれているのが「あきらめ」であった。女学生同士がお姉様、妹という呼びかたで示しあうのが流行であった一種独特の感傷的な愛着。姉さんはそうやって女子大学に行っているのに、妹は芸者屋へ養女になっていて、早熟な、その社会では習俗となっている恋の戯れめいたいきさつを義兄との間に生む気分。そういうものも作者は自身の濃厚な気分をそこに絡めて描き出しているのである。「あきらめ」につづいて、「誓言」「女作者」「木乃伊の口紅」「炮烙の刑」と進むにつれ、田村俊子の気質と作品とは、益々あますところなく当時のロマンティックな文学の潮流に谺《こだま》しながら、その流れのなかでも、まことに際だった一筋の赤い糸となって行った。官能を描く筆は執拗と頽廃の色を重ねつつ「女の前にだけは負けまいとする男の見栄と、男の前にだけ負けまいとする女の意地」とが、芸術上の張り合いの中で、逼迫した日常生活の気分の齟齬の間で、苦しく悶え合う姿をおおうところなく描いた。それらの作品が、当時にあっていかに独特、それでいて共感と刺戟を与える存在であったかは今日でも尚十分に推察出来る。「木乃伊の口紅」は、そういう意味で、血のしたたるような作品であると思う。義男という創作力を喪った男が「自分一人の力だけでは到底持ちきれない生活の苦しさから女をその手から弾きだそう弾きだそうと考えている中を、こうして縋りついていなければならない自分というものを考えた時、みのるの眼には又新しい涙が浮ん
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