良人である自分にちっとも天真な情感を表現しようとしない他処他処しい妻。義弟にあたる二郎には自然な暖みをこぼして応対するように見える妻。兄には、そういう女の心が分らない。「自分は女の容貌に満足する人を見ると羨ましい。女の肉に満足する人を見ても羨ましい。自分はどうあっても女の霊というか魂というか、所謂スピリットを攫まなければ満足が出来ない」と云ったイギリスの作家、ジョウジ・メレディスに同感をもつ兄の苦悩は、「おれが霊も魂も所謂スピリットも攫まない女と結婚している事丈は慥かだ」という自覚にある。兄は弟にたのんで、わざわざ妻を小旅行に誘い出してその心持をきいて貰うという細工までするのであるが、夫妻の心持が打開されるような結果は何も齎らされない。
 愛情の純粋さということに対しては、無力である習俗的な結婚の法律上の効力を懐疑する夫は、妻と弟との自覚されていない感情への猜疑を高め、兄は自殺しかねない精神状態となって来る。そこを親友が旅行に連れ出して、やや感情の均衡をとり戻させるということで事件は当面の終りをつげている。小説として「行人」のテーマは「何んな人の所へ行こうと嫁に行けば、女は夫のために邪になるのだ。そういう僕が既に僕の妻をどの位悪くしたか分らない。自分が悪くした妻から、幸福を求めるのは押しが強すぎるじゃないか。幸福は嫁に行って天真を損われた女からは要求出来るものじゃないよ」という結論を、その終局として得ているのである。
 この力作の中で漱石は、執拗に兄の心理を追求しているが、兄の妻である千代子の心理は受動的に静的に置いている。又、女が妻となれば天真を害われずにはいないという悲痛な現実の条件を醸している夫婦というものの通念や家庭というもののありようを、作者として社会的に解剖する試をも企てていない。「行人」の中でもし一度作者漱石が、妻の心のうちに潜り入って、その沈黙の封印を破り終せたとしたら、全篇はどんなに違った相貌を呈したことだろう。しかし漱石はそういう風には、男女のいきさつの現実を掴まなかった。その精神を捕えたいという男の欲望の側からだけ進んで行って、ありのままの精神を発揮出来ないようになっている女の社会的、習慣的条件を分析して見ようとしていない。女の上にだけ重くのしかかる目に見えない日常の絆、女心は先ずそれを吐露したいのだという疼くような苦衷、それは「行人」の千代子の心のなかにとらえなかったばかりでなく、漱石のあらゆる他の作品のなかに欠けている。初期の作品で、「草枕」の女主人公や例えば「虞美人草」の藤尾のような女と、素直に兄の導くままの運命に入って行くおとなしい娘とが対立的に描かれていた漱石の女の世界は、「明暗」の複雑さに進んで、そこには権謀と小細工に富んだ女の一面が、色濃く追加されているけれども、女自身が自身の天真さを求める天真な熱意で周囲の習俗にぶつかって行くというリアルな女の姿は一つも見出されないのである。
「作家としての女子」という感想の中で、芸術の分野では性別が消えると簡単に云われている半面に、女が小説をかいたりするのは近代自意識の目ざめによる男への競争心と云われているところも、漱石の場合としては、やはり、女の内面的な心情の必然のありように対する見かたの不十分さと密接に結びついている。平常の女にこそ女のまことの姿があることをリアリストとしてつかんでいない。
 世すぎのための文学の仕事という意味で、職業としての自覚をはっきり持って小説をかきはじめた一葉にしろ、創作の衝動を男への競争として意識しなかった。女としての自身の境遇、そこを生きてゆく明治二十年代の日本の市井の女としての日常の心に、やみがたい疼きがあり、涙があり、訴えがあり、その上でそれを佳い作品に仕上げたいという勝気も熱意も加ったと思われる。時代が明治四十年代に進んで、日本の女の文化の水準が進み、社会的にも思想的にもやや複雑にされ、自覚を加えられたとして、女が作家となってゆき、小説を書いて行く心持の最も深いところにあるものは、依然として、この世に生きる女として真情吐露の欲望であったことは疑いないと思う。一葉の作品の世界では漠然と浮世のしがらみという風に見られていたものが、この時代に入ってはくっきりと社会の中心に男をおいて見られるようになって来て、それに対する女としての心を主張する形をとった。競争と云えば、そこを指すことも出来るかもしれないが、どっちが勝つというようなゴールが眼目ではなくて、少くとも、女の側からは、求めるものを求め抜こうとすることに伴った勝敗の感のあらわれであったろう。
 そういう意味での男女相剋を、最も濃い時代的雰囲気の中で小説に書いて行ったのが田村俊子であった。
 明治四十四年、大阪朝日新聞の懸賞に応じて「あきらめ」という長篇小説が当選し、つづ
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