だ。」「自分の内臓を噛み砕いてでもやりたい程の口惜しさばかりはあってもみのるは何を為ることも出来なかった。みのるは矢っ張りこの力のない男の手で養ってもらわなければならなかった。」こういうみのるが、それを書かなければ「別れてしまうばかりさ」と脅す男の眼に見張られながら「書きさえすればいい?」「書くわ。仕方がないもの」と涙をうかべつつ、気のすすまない懸賞の応募作品を書きあげる。これが「あきらめ」の生まれた、背後の現実生活の絵であった。
 この小説の当選は、当座の経済の苦しさから義男とみのるとを救ったけれども、義男の精神生活は立ち直れず、その小説を書かせた自分の力を恩にきせるばかりで、それから先にきりひらいてゆく努力の道についてはみのるに何も与えるものをもっていなかった。「みのるは、自分の力を自分で見付けて動きだした」「みのるを支配するものは義男でなくなった。みのるを支配するものは、初めてみのる自身の力となって来た。」
 作家としての田村俊子は、現実に其の道を歩いたのであった。そして、婦人作家として、文学の上にも経済の上にも独立した。けれども「木乃伊の口紅」の中で、自身を支配するものは自分の力となったと云いきっている彼女は、女として又芸術家として、果して自身の力を飽くまで自分の支配の下に掌握しつくし得たのであったろうか。そのように完全な精神の自立が確保されたのであったろうか。この問いは、田村俊子という一人の婦人作家をチャンピオンとした明治四十年代という時代に向って、一層切実にかけられる質問でもある。
「炮烙の刑」で、作者は龍子に「あの青年を愛すのも、慶次を愛すのも、それは私の意志ではないか。私は決して悪いことをしてはいない。」謝罪するよりは炮烙の刑を良人から受けようという、愛においても自分を立てる女を描いている。だが、私の意志[#「私の意志」に傍点]というその実現の中に、つつみきれない複雑なものが現実の心にあふれていて、経済の上に芸術の上に一人立ちして、男をも自分から選び愛して行っていると思う実際は、案外に「自分の紅総のように乱れる時々の感情をその上にも綾してくれるなつかしい男の心」に「長く凭れていた自分の肌の温みを持った柱」へのようにもたれて、生きてゆく力の半ばをかけていたのではなかったろうか。女は男を愛さずにはいられない。その自然さに、その自然さの時代的な主張にわれから靠れて、本質においての受け身なところや、又愛とひとくちに云い表わしているその愛の質を見わける力はまだ十分になかったのではなかろうか。
 男と女とが偶然向いあった世界の中でだけ男と女との問題が扱われていた当時の限界は、おのずからこの婦人作家の上にも照りかえした。社会一般としてその限界がうちひろげられるには時代が反動的であった。その反動の半面に爛漫と咲き出したネオ・ロマンティシズムの芸術は、「あきらめ」に窺えるこの婦人作家の所謂女学生っぽい潔癖さ、追究心を育てるよりも、遙に容易に華やかに、彼女のうちに伝統となっている頽廃の一面を開化させた。芸術家として、作家自身余りすらすらとその道を歩いた。作者をめぐる生活と文学の情緒の渦は、ロマンティックな色を配合しながら、段々高まるよりは低まって行った。
「あなたなどと一緒になって、つまらなく自分の価値を世間からおとしめられるよりは、独身で、一本立ちで、可愛がるものは蔭で可愛がって、表面は一人で働いている方が、どんなに理想だかしれやしません」「女の心を脆く惹きつけることを知っていなくちゃ、女に養わせることは出来ませんよ。あれも男の技術ですもの。」
 田村俊子一人がこの過程を、経たのではなかった。谷崎潤一郎や長田幹彦などの耽美的傾向が、真にその養いとなる環境を持たないために次第に初めの清新さ、横溢性を失って行ったように、そして草双紙めいた情話物を書くようになったように、この作家も「小さん金五郎」を書いた大正四年の後二三年を経済と芸術と両面からの混乱苦痛に過して、大正七年、日本を去ってアメリカに赴いたのであった。
『白樺』が明治四十三年に創刊されて、日本の近代文学には、一種独特の溌剌たる生気がもたらされることとなった。
『青鞜』の出る一年前、自然主義文学の絶頂がややすぎた頃、武者小路実篤、有島武郎、生馬、志賀直哉、里見※[#「弓へん+享」、第3水準1−84−22]、長与善郎、木下利玄、柳宗悦、園池公致、児島喜久雄、郡虎彦等上流の青年たちによって発刊された『白樺』は、当時文壇的主流をなしていた「自然派の立場にあきたりない」この人たちの積極的な人間性の肯定の欲求から結ばれたものであった。
 自然主義作家によって描かれる人間性の高貴な可能の否定に対する若々しい反撥、単調瑣末な日常にかがまった人生態度へのあき足りなさ。それらは『白樺』同人たち
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