ぎるというほど、善馬鹿の一族は、どれもこれも人間らしいのはいなかった。
 善馬鹿が、まだあんなにならないで一人前の百姓で働いていた時分に出来た、たった独りの男の子は、これもまたほんとうの白痴である。
 女房が愛想をつかして、どこかへ逃げ出してしまってからは、善馬鹿とその子を両手に抱えて、おふくろばかりが辛い目を見ているのである。
 もう十一にもなりながら、その子は何の言葉も知らないし、体も育たない。五つ六つの子ぐらいほかない胴の上に、人なみの二倍もあるような開いた頭がのっているので、細い頸はその重みで年中フラフラと落付いたことがない。そして、年中豆腐ばっかり食べて、ほかの物はどれほど美味《おい》しいものであろうが見向きもしなかった。
 彼は、自分の唯一の食料を、
「たふ」
ということだけを知っているので、村の者達は皆何かの祟《たた》りに違いないと云っている。
 何でもよほど前のことだけれども、町へ大変|御利益《ごりやく》のある女の祈祷者が来たことがあった。そのとき、狒々婆も白痴の孫を連れて行って見てもらうとその女が云うには、幾十代か前の祖先が馬の皮剥ぎを商売にしていたことがあって、その剥がれた馬の怨霊《おんりょう》の仕業なのだから、十円出せば祈り伏せてやるとのことだったそうだけれども、婆にその金の出せよう筈はない。それで、払い落してもらうことは出来ず、またもうそれっきり医者にもかけず、自分でさえ出来るだけは忘れるしがくをしていた。
 このような有様で、狒々婆はいやでも応でも食うだけのことはしなければならないので、他家の手伝いや洗濯などをして廻っている。そして、三度の食事は皆どこかですませて、自分の家へはただ眠るだけに帰るので、村中からいやしめられて、何ぞといっては悪い例にばかり引き出されていた。
 可哀そうがられるために、自分の年も二つ三つは多く云っているとさえ噂されているのである。
 私は、たださえ貧乏な村人のおかげで、ようようどうやら露命をつないでいる婆が気の毒であった。境遇上そうでもしなければ外に生きようがないのだから、ただ馬鹿にしたり酷《ひど》く云ったりすることは出来ない。もうよぼよぼになって先が見えているのに、朝から晩まで他人の家を経廻《へめぐ》って、気がねな飯を食わなければならないのを思うと可哀そうになる。
 で、私は出来るだけ婆に用を云いつけて、食事などもさせ、ちょいちょい古い着物や何かをやった。彼女は私に対して好くは思っているらしいけれども、ひどく貧乏で、恥も外聞もない慾張りな様子が少からず私には気持悪かった。
 食べる物でも、膳にのせてやった物ばかりでなく、残り物があったらどうせ腐るのだからくれろと、ぐんぐん持って行く。そんなときに、若しやらないなどと云おうものなら、もうすっかり不機嫌になってポンポンろくに挨拶もしないで帰ってしまうのである。新しい着物でも着ていると、一つ一つ引っぱってみないでは置かない。
 そんなことがほんとにたまらなく厭であったけれども、私は、貧しい者のうちに入って行こうとしながら、品振《ひんぶ》っている自分を叱り叱りしてようよう馴れるまでに堪えたのである。
 善馬鹿のおふくろが、今までより屡々《しばしば》出入りするようになると共に、だんだん村中の貧しい中でも貧しい者共に接する機会が多く与えられるようになった。
 親父は酒飲みで、後妻は酌婦上りの女で、娘は三年前から肺病で、もう到底助かる見込みはないと云うような桶屋の家族。
 中気《ちゅうき》で腰の立たない男と聾の夫婦。
 それ等の、絶えず愚痴をこぼし、みじめに暗い者の上に私はそろそろと自分のかすかな同情を濺《そそ》ぎはじめたのである。
 もとより私のすることは実に小さいことばかりである。私が力一杯振りしぼってしたことであっても、世の中のことに混れば、どうなったか分らなくなるようなものであるのは、自分でも知っている。
 けれども、私は愉快であった。
 自分は彼等のことを思っているのだということだけでも、私はかなりの快さを感じていたほどである。
 毎日毎日を私は、新しく見出した仕事に没頭して、満足しながら過していたのである。
 けれども、たった一つ私にはほんとに辛いことがあった。それは、善馬鹿の子の顔を見ることである。誰も遊び相手もなく、道傍の木になどよりかかりながらしょんぼりと佇んでいる様子を見ると、ほんとに私は苦しめられた。
 何とか云ってやりたい、どうにかしてやりたい。私はほんとにそう思う。
 が、彼の痩せた体や、妙に陰惨な表情をした醜い顔を見ると、何もしないうちにもう、堪らない妙な心持になって来る。
 彼の眼つきはすっかり私を恐れさせる。私は、彼の傍を落付いて通ることさえ出来ないのであった。
 何だか今にも飛付いて頸を締められそうな気
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