開拓者自身は、或る程度まで自分の希望を満たし、喜ばされ、なおその村の歴史上の人物として称揚されるけれども、はかない移住民として、彼の事業の最後の最も必要な条件を充たしてくれた、沢山の貧しい者共は、どのような報いを得ているか?
 開墾者にとっては、いなければならなかった彼等でありながら、二十年近い今日まで彼等はただ同じように貧乏なだけである。年中貧しく忘れられて死んで行くだけである。
 私は、祖父の時代からの沢山の貧しい者に対して、どうしても何かしなければならない。今日まで、すべきことは沢山あったのに、臆病な自分が見ない振りをして来たのだというような気の済まなさが、農民に対する自分の心を、非常に謙譲なものにしたのである。
 甚助の子が、私にいたずらをした次の日であった。平常より早く目を覚まし、畑地を一廻りして来た私はほのぼのと天地を包んでいる薔薇色の靄《もや》や、裸の足の上に朝露をはね上げて、生々としている雑草の肌触り、作物や樹木の朝明けの薫りなどに、どのくらい慰められたことであろう!
 非常に愉快な心持になって、女中に笑われながら、大炉に焚火《たきび》をしたり、いりもしない野菜を抜いて来たりしていると、東側の土間に一人の女が訪ねて来た。それは、甚助の女房であった。
 私に来てくれと云うので、出て見ると働き着を着て大変にボサボサな髪をした彼女は裸足で立っている。
 女は、私の顔を見ると、
「お早うござりやす。昨日《きんのう》は、はあ俺《お》ら家《げ》の餓鬼共が飛んでもねえ御無礼を致しやしたそうでなえ。おわびに出やした。これ! こけえ出てわび云うもんだぞ――」
と、云いながら手を後に伸ばすと、広い背のかげから、思いがけず男の子が引き出された。
 彼は黙って下を向いている。赤面もせず、ウジウジもせず、ちっとも母親にたよるような様子をしないでつくねんと立っている。
 女は、子供の方へ複雑な流し目をくれながら、しきりに繰返し繰返し勘弁してくれとか、自分等の子達は畜生同様なのだから、どうぞこらしめにうんと擲ってやってくれなどとまで云った。
 けれども私は、人にあまりあやまられたりすることは大嫌いである。自分の前にすべてを投げ出したようにしていろいろ云われると、仕舞いには、自分が恥しくなって来る。何だか、いかにも自分が暴君じみているように思われて、いつも母の云う「いくじなしのお前」になり終《おお》せてしまう。
 今も、その癖が出たとともに、もうどの子が何をしたとか、憎らしいとかいうことは出来るだけ忘れようとつとめ、また実際気にもならなくなっているので、そんなにされることはよけいいやであった。
 で、私が口を酸《すっぱ》くして叱るのをやめろと云っても、彼女《かれ》の方ではそれをあてこすりだと思っているとみえて、だんだん子供にひどくする。
「食うてばかりけつかってからに、碌《ろく》なことーしでかさねえ奴だら。これ! わびしな。勘弁してやっとよ、何とか云いなてば」
と、子供の腕を掴んで、小突《こづ》いたり何かしても、子供の方でもまた強情なだんまりを守っている。
 私には、甚助の女房がどんな心持でいるかよく分った。分っただけに、そんな謂《い》わば芝居を見ているのは辛い。
 私の云うことなどには耳もかさずに、怒鳴っていた彼女は、
「これ! どうしたんだ? う? おわびしねえつむりなんけ?」
と云うと、いきなり大きな掌で、頸骨が折れただろうと思うほど急に子供の首を突き曲げた。
 そして、
「どうぞ御免なして下さりやせ」
と云うや否や、
「行っとれ!」
と叫んで突飛ばした。
 私は息がつまるくらいびっくりしてしまった。けれども、当の母親は満足らしく笑いながら小腰をかがめて、
「お暇潰《ひまだ》れでござりやした」
と畑へ出て行った。
 下女は彼女の後姿を見送りながら、
「甚助さん家《げ》のおっかあは利口もんでやすなりえ、ちゃんと先々のことー考《かん》げえてる」
と嘲笑った。

        五

 村の四辻に多勢人立ちがしている。
 子供等や、鍬を担いだ男女、馬を牽いた他所村の者共まで、賤《いや》しい笑いをたたえて口々に罵り騒いでいる真中には、両手に魚を一切ずつ握った男が、ニヤニヤしながら足を内輪にして立っているのである。
 肩の所に大きな鍵裂《かぎざき》のある女物の着物を着て、細紐で止めただけでズルズルと下った合せ目からは、細い脛《すね》がのぞいている。
 延びたなりで屑糸のような髪には、木の葉や藁切れがブラ下り、下瞼に半円の袋が下って、青白い大きな目玉がこぼれそうに突出ている。紫色の唇を押しあげて、黄色い縞のある反っ歯が見え、鼻の両側の溝には腫物《はれもの》が出来て、そこら一体に赤く地腫れさせている。
 身動きする毎に、魚の臭いや何やら彼やらがご
前へ 次へ
全31ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング