さで、志野はまた髪をいじり始めた。――
このことを忘れた数日後の或る夜、志野と房は電燈の下で、静かに互の仕事をしていた。志野は裁縫、房は編物。ひっそりした晩春の宵ががらんとした室をもみたす心持がされた。房は、平和な、充実した気分であった。彼女は時々頭をあげて志野を見た。志野も、和らいだ夜に心を鎮められて、針仕事に没頭していた。志野にこのようなことは珍らしい。彼女は、大抵亢奮しているか、さもなくばだらけているか、どちらかだ。
折々、電車が駛《はし》り過ぎた。畳の上で鋏が光っている。……
房は、きくともなく、下の若者が吹くらしい口笛を小耳に挾んだ。よく近頃レコードできく、舞踏曲らしい。なかなかうまい口笛であった。暫くしてやんだ。階下で笑声がする。――手馴れた竹の編棒、滑りよい絹混りの毛糸、あたりの浄らかな静けさ。三つが一つに調子を合わせ、また心を吸取られていると、意外に近いところでさっきの口笛が起った。一頻り吹いて静かになった。間を置き、今度は、二声ずつに区切って鋭くヒューヒューと鳴った。
房は思わず志野の顔を見た。志野はまるでうんざりした表情だ。彼女は、何か云おうとする房を、いそ
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