、あった筈のビスケットがない。おやと思っていると、大垣は次に来た時晴れ晴れ、
「こないだのビスケット美味かったな、もうあれない?」
と、請求した。
「いやな人! ばれちゃったじゃないの、はっはっはっ」
志野は奇妙な徳をもって生れついているものと見えた。彼女が可愛い喉を仰向け、実にからりとした声ではっはっはっと笑うと、房はどうしても腹立ちを持ちつづけていられなくなった。腹の空いた二匹の仲よい鼠でも見つけたようにふと気がほぐれ、
「いじきたな! あなた達に会っちゃ破産しちまう」
と、笑って損をさせられてしまうのであった。
明日休みという日、志野は朝から出かけた。十一時廻って、階子口から、
「ああ、ああ、私全くへたばったわ」
という声がした。房は、待ちかねて出て見た。後から誰かがついて来た。
「一人じゃないの」
「――僕」
大垣であった。志野は、
「さ」
と大垣を先に室に入れ、畳の上に坐ると、直ぐ脚を揉み始めた。
「――家なんてないもんね、いざ探すとなると。小さくていい家なんてとても在るもんじゃあないわ」
「どの辺歩いたのよ、一体」
「本郷と神田――お友達で日暮里の方に住んでる人があるって、行って見たけど、駄目よ、やっぱり」
「――郊外へ行けばいいんだろうけどね」
「いやいや郊外はいや。――今日は。ギュ、と殺されたりするの私御免さ」
彼等は、薄暗い露台の方で顔を拭いた。
「――お房さん、ずっといたの? うちに――」
「一寸出たわ」
「明日降られちゃやりきれないな」
大垣が先に室に戻った。彼は、房がやっている絹糸の編物に触った。
「お房さん、編物がお得意だな、この前のと違うんでしょう、これ」
「違うわ」
「何なの? 何が違うって?」
志野が遠くから口を挾んだ。
「編物さ――冬んなったら、僕も一つしゃれた襟巻でも編んで貰おうかな」
髪をかき上げながら入って来た志野が、
「襟巻なんぞなら、私編んだげてよ」
と云った。
「ほほう」
志野は、さっと赧くなった。
「何が、ほほう?」
「――ほほうだから、ほほう、さ」
「こいつめ!」
「静かにしなさいよ! 今頃」
ふざけかけた二人は、びっくりしておとなしくなった。房は、むっとしたように下を向いたまんま、途方もなく速く編針を動かしている。志野が、くつくつ笑い、大垣に目交せした。大垣もにやにやして頷いた。その途端、房がひょ
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