下火となった。そのかわりに日本画の稽古がはじめられた。
その時分になれば、家の経済状態も少しはましになって来ていたのであったろう。私がたまに遊びに行くと、母は、葡萄や牡丹の墨絵を見せ、毛氈を敷いて稽古している二階の風通しのいい座敷へ呼ぶことなどもあった。ところが暫くで絵の稽古も中止になった。もう糖尿病になっていたので、下を向いていることは歯齦を充血させて体力が持たなかった。そのほか、後できくと、その絵の師匠は、絵筆をとっている合間に、家をたててくれなどと云い出したので、母は警戒して絵の稽古もやめてしまったのであった。
そのことは、日本画家の一種の紊風を示す話でもあり、又母が実際家であって、利害を守るにも鋭く、そういう点でも断乎としていたことをも示す面白い話だが、当時母はそんな事情はちっとも云わなかった。ただ、あの何とかさんの筆は死んでるからおやめだ。私の絵の方がよっぽど活きているよ。など話した。文学の仕事から推し母の絵の修業にも関心をもっていた私は、母の云う筆勢なるものにいくらか不安も持ったりした。文学作品で云えばメロドラマティックな誇張に陥るのではないかと、母の筆勢論には消極なう
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