としている者の本質的な人生と文学との感覚のちがいがあらわれています。人民的な階級性をもった世界観という言葉の実体は、印刷された箇条書きではなくて、わたしたちの心臓の鼓動とともに高鳴っているものであり、わたしたちが生きているとともに生きているものです。職場の若い娘さんが「私はいやよ」という一言の中にこめられているものであり、是非民主的に生きたいという人々の欲望そのものの中にあります。
一人の文学を愛する労働者が、いつもより本質的に人生の波を感じとる人として、またそれを再現する人として自分を分裂させずにあらゆる場面を生きとおしてゆくということ、そのように機動的な文学性をきたえてゆくということ、これが人民の文学の新しい発展の基礎訓練です。スキーや水泳の選手が、基礎練習として体操を忘れないように。
これまで新しい人民の文学の発端としてルポルタージュを書くようにということが、文学サークルでもしばしば云われてきています。しかしルポルタージュというものは、もう既に一定の文学様式のジャンルをしめるもので、文学製作のいろいろの条件を必要としているものです。ルポルタージュは非常に構成力を必要とします。情景の描写に相当の描写力を求めます。ルポルタージュがさかんにすすめられているにもかかわらず、案外にこのジャンルが新しい書き手をおくり出さない理由は、こういう風にルポルタージュは案外むずかしいということによります。ルポルタージュが書ければもう短篇が書けるのです。文学サークルの雑誌・文学新聞・アカハタ、いろいろの民主的出版物は、いつも読者との直結をのぞんでいながら通信員を育てあげることについて消極的でした。組合の文化部が壁新聞については馴れてきたけれども、自分たちの通信員をもつことにはまだ無関心です。わたしたちの文学的成長のために、ひとの書いた小説を十冊、二十冊とよんで、巧者な批評をするということと、たった二枚だけれども生活と文学についての文章を読者にのみこめるような具体性で書いてみることとの間には、案外深刻な違いがあるものです。勤労階級があてがわれる文化の消費者であるか、自分たちの文化をつくってゆく者であるかとの大きなちがいは、こうやって話すと面白くもないようなこの小さい一点に対する態度から分れます。
その人は一生小説を書かないかもしれない。詩は書かないかもしれない。だけれども、いきい
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