行動の高揚した時期です。いいかえれば、その人としての階級的・人生的な経験の豊富ではげしい時であるはずです。その時期にその人が死んだ気になって機械的なストライキマンの役割で働いたとしたら、その経験を通じてその人がどうして政治的・文学的にゆたかにされることができるでしょう。ストライキを描いた小説に事件と筋しかなくて、文学的な人間性が欠けていた原因がこういうところにあります。
 大体文学的に人生を生きるということはどういうことでしょう。ブルジョア・ジャーナリズムのあれこれの作品について受け売り批評をすることでもなければ、口の先だけで民主主義文学創作方法あれこれをしゃべることでもないでしょう。毎日のテムポの早い内容の実に複雑な生活の上に起るさまざまの事件、さまざまの気持、さまざまの人間関係などは、多くの人にとってその本質的な意味を考えたり、ちらりと心にひらめいた感じを追求してそれを事柄の本質にまで追いつめて自分に受け入れてゆくということはできなくて、一日一日とすぎています。文学を愛し、文学を志す人の気持というものは、おしながそうとする生活の波に対して盲目であり得ないというのが本質です。だからくりかえし云っているこの度の十九名のファシスト達の問題についても、形式的なブルジョア権力の道徳からいえば、法律が無罪としたならばそれは罪がないということにおさめて平気です。だけれどもトルストイの「復活」でさえもカチューシャという女主人公をとおしてブルジョア法律の非人間性を暴露しています。
 治安維持法という全く権力擁護の悪法によって血ぬられた立身出世の階段を一段一段と経のぼった人間が人民の正義と自由に対して罪のない者であるということは、人間としての正義感が承知しません。こんにち、権力をもっている支配者たちの法律がそれをどう擁護するにしろ、正直な人民の正義感はそれに承服しません。ブルジョア文化・文学の感覚では、こういう種類の憤りの実感をいわゆる「イデオロギー的表現」として型にはめています。頭で考えていわゆる階級性でそういうことをいうのだと思っている。でもわたしたちのこの感じは、本当にそう感じるのです。ブルジョア文学がいつも大事に創作のモティーフとして、純粋性として主張する実感そのものなのです。こういうところにはっきりブルジョア文学の文学感覚と、わたしたち人民の文学を生み、またこれから生もう
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