いるように云々……と。
 なるほど、川端康成は老成の筆ぶりで「わが犬の記」を書き、綿々たる霊の讚歌「抒情歌」を書き、決して直木三十五のように商売半分のファッショ風なたんかなどを切ってはいない。
 まるで正反対である。「水晶幻想」時代には近代のブルジョア・インテリゲンチアらしく、科学知識への興味を自慰的に示していた川端康成は、次第に円熟し、東洋人らしくなり、仏典をいじり、霊の輝きへの信仰によって高められ、微妙な美の創造者になったかのようである。
 が、しかし、この神秘主義こそ、ファッシズムがその文化を飾る重要な一つの支柱として求めるものである。
 神秘主義は、その基礎条件として、現実の社会生活からの逃避を意味している。われわれがその中に闘いながら毎日生きている資本主義社会の矛盾と崩壊の過程。その表現として支配階級のファッショ化が導き出されているほど激化している階級対立の現実からは何とも手を下しようなく目をつぶる。川端康成は作品の女主人公にいわせている。
「植物の運命と人間の運命との似通いを感じることがすべての抒情詩の久遠の題目である。」
「仏法のいろいろな経文を、たぐいなくありがたい抒情
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