んで、どうつかまれているかということが眼目だ。徳永が国際的なプロレタリア作家だとすれば、それはただ「太陽のない街」がドイツ語に訳されたということではない。一つの工場内の大衆の経験を世界プロレタリアートの立場から、日本における一つの確固たる具体性としてとりあげ得るところにある。
 二篇の小説で、徳永は具体性というものの評価をどこかで間違えた。この小説を読んで、近代企業としての一印刷工場の輪廓ははっきり浮かんで来ない。いわばその工場を周囲の人家と区切っているが、はっきり印象づけられないと同時に、外部の情勢が工場内部と交錯するものとしてちっともとらえられていない。書こうとして失敗したのではない。始めっから全然書かれようとしていない。工場のこまかい日々の事実が、せっぱつまった資本主義経済の恐慌をひしひしと思わせるような迫力では書かれていないのだ。
 それに徳永はこの小説で、これまでより一層すらすら読める書きぶりを心がけている。ひどくなめらかな調子に一日一日とうつる工場内の具体的な事実を次から次へと読ます。なるほどプロレタリア文学にはブルジョア文学が習慣づけて来たような作為的なヤマはいらない。然
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