成をあばいてもっと生々しく自分を確立しようという努力の途上で、今日どんな方角へ出て来ているかという点が真面目に考えられるのである。「札入」の作者は「万暦赤絵」がその経済的知的貴族性から持っていない俗塵、世塵を正面から引かぶろうと構えているらしい。しかし、作者は自身の気構えのつよさに現実の苛烈さを錯覚しているところもある。志賀直哉氏の人為及び芸術の魔法の輪を破るには、志賀氏の芸術の一見不抜なリアリティーが、広い風波たかき今日の日本の現実の関係の中で、実際はどういう居り場処を占めているものであるか、何の上にあって、しかくあり得ているかを看破しなければならないのである。志賀氏から縦に一歩、歴史的に一歩出なければならないのであると思う。
佐藤俊子氏の「残されたるもの」(中央公論)はこの作者の感覚が横溢していて、帰朝当時『改造』に書かれた作品より、地があらわれているともいえる。作者が、駒吉という少年の感情の動きの中に暗示し、希望しようとしている勤労者としての健全性の要求もわかるのであるが、十五歳の少年の半ば目ざめ、半ば眠っている官能的な愛、その対象を母に集注している心持、素朴な原始的な反抗心
前へ
次へ
全15ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング