あの批評を全体として見れば、作家が作家に向っていうものとしては随分変なものであった。何だか役人ぽい。そして、大旦那っぽい。小説をかくものには刑務所もためになるとか、自分が「機嫌を直した」とか。ああいう程度の言葉が、褒めたような印象を誤って一般に与えるところに、謂わば今日の文学の時代的な弱さがかくされているのである。
中本さんが昨今書かれるものには、大衆の生活と発展というものを見る角度、労働というものを見る角度に、独特の見解が示されて来ているのであるが、「白衣作業」でも、主題はやはりその基調の上に立てられている。ある作品が、題材的には極めて具体的であるが、主題は必ずしも客観的な現実をとらえ深められているのではない場合、作品の歴史的真実性は減殺されざるを得ない。特に、この種の作品は、作品の出現の本質に、その点の統一をきびしく求める因子をふくんだものなのである。
一方に池田小菊氏の「札入」(改造)がある。他方に尾崎一雄氏の「暢気眼鏡」(文芸春秋)がある。その中央に、この二人の作家に直接間接影響をもっている志賀直哉氏の生き方と芸術的境地とを置いて考えると、池田氏、尾崎氏、それぞれ志賀的完
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