放運動の道はジクザクだ。ぴったりその線に沿ってゆくプロレタリア芸術運動の道もジクザクだ。外にありようない。困難な歴史的使命をはたしてゆくうちに、誤謬がないとは決していえない。
 ボルシェビキ作家にとって、大事なのは一つの誤謬をも犯さないということではない。犯した誤謬を、率直に認め、失敗の原因を根こそぎ詮索して、その経験をあらいざらい次の運動の中で発達のためのこやしにすることだ。
 六月の『中央公論』に長谷川如是閑が文芸時評を書いている。プロレタリア文学についての意見の中で、取材、形式の固定化をあげている。そして、「プロレタリア作家生活がすすむにつれ、その芸術的空想の局限が見えて来るようだ」から、いわゆる政治小説から出て、モットほかのところへ種さがしにゆけと勧告してくれている。
 大体その時評は、妙なものだった。マルキシズムの立場で書かれているわけなのだろうが、敗北主義で、政治と文学との見解は、ブルジョア・インテリゲンチアの宿痾《しゅくあ》、二元論だ。
 しかし、言及されているプロレタリア文学の取材、様式の固定化という批判は、そのままとりあげよう。
 けれども、われわれのところではその解
前へ 次へ
全19ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング