保田与重郎氏が、先頃和泉式部論をかいて、藤岡博士の和泉式部観に反対し、結局は筆者自身、このよさが分らないものにこのよさは分らない、というような主観的な美文的叙述をしていても、恐らく本当の国文学の研究者と云われている人は、それに対してペンを執ることなど思いもしていないであろう。国文学研究の正道に立って、古典が文学外の力に利用されることに疑義を挾むぐらい、真に気魄をもって国文学を研究する人は尠い。明治以来今日迄のヨーロッパ文学研究の盛んなのとその影響力に対して、或る種の国文学研究者は、自身の態度として、反動である可能さえ含まれているのである。
今日の一般市民の生活感情と古典の感情とが、ぴったりそのまま同じであろう筈はないのであるから、全体として見れば、市民的常識の中に古典の知識は乏しいと云える。
佐藤春夫氏のような作家が、「もののあわれ」について云々したりすると、そこに一応読者が生じるのは、古典文学の主潮としての「もののあわれ」そのものが知りたいというより、佐藤春夫氏という現代の作家に対する予備知識なり親しさなりで、そのとりあげた問題に一時たりとも目をとられるのである。批判をする準備は
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