知識そのものとして弱いのであるから、受動的に読まざるを得ない。右の事実を綜合して見ると、今日、国文学の古典について云々することは、読者大衆の側からの鋭い視線にそなえる用意も比較的なくてすむし、本当の国文学研究者たちの、大衆的場面への批判的進出の懸念もさし当りはないという、一種異様な地の利を占めた安全地帯に身をよせる仕儀となるのである。林房雄氏等が、抽象的情熱としての万葉精神、王朝精神などと敢て云い得る根拠は全くこういう事情にあるのである。
三 例えば「さび」について
近頃は一方に万葉、王朝時代の精神ということが特殊な根拠の上に云われているけれども、現実に今日の日本人の生活感情の内部にものこっていて、美的感覚などの裡にマンネリズムとして余韻をひいているものは寧ろそれ以後の、「さび」とか「粋」とかの要素である。現代の文学者の或る人々の中には文人気質が様々に捩れ、弱小なものとなって未だのこっており、そういう人々の間では「さび」が猶芸術価値として存在している。詩人の堀口大学氏などを眺めると、フランス近代詩人の粋の感覚を、日本の粋とそのデカダンスの面でつきまぜて感じているこ
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