て暮す人間の感覚で書かれている。決して決して日本の季感に通じるリリシズムではないものでかかれている。
題材とか主題の扱いかたというものより一層肉体的生活的な文章の行と行との間に湧いて、読者をうって来るそういう大陸の圧力は、アメリカ文学ばかりでなく例えば、諷刺小説「黄金の仔牛」の肌あいにも十分感じられるし、魯迅の小説にも生々しく息づいている。
日本の文学が大陸文学と云いはじめてから、その文学のために奔走する人々は、どの程度までこういう点についての感覚を目ざまされて来ているのだろう。
大陸文学という呼び名が浅い目先の音響できこえるのは、年月が短いばかりでなく、文学的業績が乏しいばかりでなく、大陸というものがその生活で示している巨大で複雑な主題の深さをリアルにつかんでいないことや、その主題が文学として命をもった表現を与えられるためには、作家そのものの感性が大陸生活史の質量を具えなければならないことが、分っているようで分っていないところから来ていると思う。
大石千代子さんは、ブラジルに十年の余も暮し、南洋にも暮し、書きたい題材はいっぱいあって苦しいくらいだという状態で、『山に生きる人々
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