命をおとして、クライドは死刑になるあたりの心理の追究は、ドストイェフスキーの影響をうけて、作品を通俗小説のプロットから救っているようだが、全体からみるとこしらえものであるという印象を与える。
 そういう部分ばかりでなく、ドライサアの現実のみかたには通俗なところがあって、クライドの心理、行動のモメントを肯定している作者としての肯定のしかたにもそういう点が強く感じられる。ドライサアはアメリカの作家として、あらゆるアメリカの悲劇を克服しようとしてたたかうようなたちの青年は描かないで、クライドのように富は富として常識に魅せられ、享楽は享楽として魅せられて行って、しかも、素手でそれを捕えてゆくほど厚顔でもあり得ないアメリカの普通人の悲劇を描く作家と思える。ドライサアが世界の歴史の転変に対して作家としてもっている限界について云われた理由もそこに在ったのだとわかる。今度読んで特別心に刻まれたのは、それらのドライサアの作家としての特質が、アメリカという大陸の社会生活の血液循環に何とはっきり養われているかという点についてのおどろきである。
 バルザックの作品の深さ大さにふれるとき、私たちは作家バルザック
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