人生的な意味では既に現代らしくディフォーメイションしたものとしてあらわれている「嫌な奴」の存在を、文学として、即ちそれによって現実をかえりうつべき武器としてのディフォーメイションに迄たかめてゆくためには、大変つよい、明徹な判断の力とその客観的なよりどころがそれ等の作家たちに必要とされるわけであろうと思う。さもなければ、それらの作家たちは現実の一部として自分にも内在する人生の歴史的な歪曲の姿とそれなりに馴れ合ってしまうしかしかたがないことになって来るのである。

「嫌な奴」を作家が観照の圏外に追放しただけで文学の生命が純血に保たれないのは勿論であるし、文学が現実を隈なくとらえてゆく意味でのリアリティを失ってゆくのも実際であるが、小説のなかにただそういう性格が実際生活の中でと同様に跋扈《ばっこ》するという現象と、時代と社会がディフォームしたものとして露呈している現実を典型として文学のディフォーメイションの裡に批判し再現してゆくということとは全く別なのである。バルザックのリアリズムは、この意味でディフォームされた素材を、それをこそわが文学の世界として渉猟しているのであるが、甚だ興味あることは
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