最も高度な様式が象徴と諷刺の文学であるという点から誰にも明らかであると思う。このような文学の力づよいディフォーメイションは、その文学の源泉としてそれらの作家たちの内部に極めて手強《てごわ》く強靭な人生への健全な観察と判断とを前提している。ゴーゴリやドーミエの諷刺を思い合わせる迄もないことであると思う。そのような文学のディフォーメイションが初めて当時の現実と対抗し得るものであったことを、否定するものはないのである。
しかし、私たちが注目をひかれることは、これらの文学のディフォーメイションの古典の選手たちは、決して今日日本の小説へ「嫌な奴」の登場を流行させはじめた一部の作家たちのように、そして片岡氏がそれを肯定していられるように自身の内にもその一部の流れをもっているという人々ではなかった。
日本の文学における人間性の問題は三年ばかり前にヒューマニズムの問題が現実の推移した事情のままに揉み拉がれて以来、不運なめぐり会わせに消長しているために、今日登場する「嫌な奴」が作家との間にもっている内在的関係も云わば複雑怪奇ならざるを得ない点もある。若しその内在的なものを肯定するとすれば、そのように
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