生のディフォーメイションがあるのみである」ことを窪川鶴次郎が警告的に語っている言葉に対して、片岡鉄兵氏は寧ろ反対に、そこに日本の小説の新しい段階を見ようとしている自身の見解を示していられる。
筆者の意見によれば、小説のなかに流行しはじめている「誰にも嫌われる、ふてぶてしい性格」の登場の今日の必然は、彼等の存在が今や無視出来ないほどの重要性を持ち、作家をして書かずにはいられなくさせていること、同時に近頃の小説が一方で従来の繊細な内的追及に没頭している他の一方では、これまでの文学の心情と全く縁のない、別の生の発展に興味を持ち出し、「嫌な奴」を若い作家たちが従来の文学の武器で粉砕しないのは、それらの若い作家たち自身のうちにその一部分が流れているからでもあろう。いま、それらの作家たちは「嫌な奴」と取組みはじめたのであり、その取り組みの中から新しい武器を獲得して来ようとしているのだ、という見地から、そういう今日の流行を人生のディフォーメイションがあるのみであるとする論に反駁していられるのである。
文学におけるディフォーメイションは、本来意志的なものであるということは、ディフォーメイションの
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