でもある。
歴史が、ほかならぬ今日の、この時の、この私たちの感情と行動にもこもってそのものとして生きているという感覚がはっきりしないことは、昨今のように世界の歴史が強烈に旋回して、日常の気流が至って静穏を欠いている時期、とかく私たちの現実の歴史感を麻痺させられ、歴史への判断から出発する自身の生活的思意を渾沌とさせられる危さが多い。しかも現実は容赦ないから、その生活的思意の無方向のまま矢張り我々は歴史の因子として厳然と存在しつづけ、そのような怠慢で自分が存在したことの報復は極めて複雑な社会全般の事情の推移そのものから蒙って生きて行かなければならない関係におかれているのであると思う。
歴史に対する我々のポテンシャリティの捉えかたとの連関でみると、文学におけるディフォーメイションの問題はその過程に様々の曲折をふくんでいる課題の一つだと思われる。
『新潮』六月号に片岡鉄兵氏が「嫌な奴の登場」という題で小論をかいていられる。「近頃誰からも嫌われる、ふてぶてしい押の強い、ある共通したタイプの人物を小説に取扱うのが流行っている」しかし作者たちがそれを描く意図が常に明瞭でなく、そこには、「ただ人
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