、彼自身時代のディフォーメイションを内在物としてもちつつ社会関係の中では、そのことからの損傷の被害者の立場にありその流血的な日夜から彼の文学は遂に馴れ合い以上のものとして再現して来ている。
今日、日本の小説に、自身の身内をも流れる同質のものを感じつつ「嫌な奴」を登場させているという一部の作家たちは、以上のような関係では、外的・内的な「嫌な奴」と作家としての自己との間にどんな関係を自覚しているのであろうか。彼等が「嫌な奴」を粉砕していないという事実の人生的・文学的機微は案外にもこのあたりに潜んでいるのではなかろうか。「いま『嫌な奴』と取組みはじめた作家たちが、もし『嫌な奴』に負けてしまったなら、どのような事が起るだろう」と我知らず洩されている片岡氏の危懼《きく》は、とりも直さず文学の現実としてその危懼をまねく何かの必然が今日に見えているからこそであろうと思える。刻々の歴史に対する客観的な眼力を喪えば、文学上のディフォーメイションはディフォームした人生の局面の屈伏した使用人ともなるのであると思う。
[#地付き]〔一九四〇年五月〕
底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
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