与えよという叫びはフランス大革命の時から労働者階級の肉体の叫びであった。それがとりもなおさず人生を与えよという叫びであるからこそ、社会主義と革命の伝統は、直接労働者として生活していない人類のすべての正義と美とをこの人生に求める人々までを、その陣営に召集して来た。人類の良心とともに根ぶかい革命の伝統は、歴史とともに空想的なよりよい社会への願望から科学的な社会発展の原理の把握にまで進んで来て、二十世紀には、地球上に続々とより多数な人間がより人間らしく生きてゆく可能な条件をそなえる民主国家が生れ出た。一九一七年のソヴェト同盟の社会主義国家の誕生。一九四五年に東ヨーロッパに人民民主主義政権が確立し、北朝鮮の共和政権が生れ、一九四九年十月には中華人民共和国が出発した。わたしたちが日本のこんにちの現実の中に生き、そして死ななければならない八千五百万の日本人民の一人としての自分の人生を思うとき、たとえば全面講和の要求にしろ、まったくわたしたちの直接な世界平和への良心の声であり、軍事的奴隷としてでなく生きることを欲している独立市民の声である。

 小説をかこうとするひとはおしきせ[#「おしきせ」に傍点]の感じかた、考えかたで満足しないで、自分の実感を大切にしなければならないと、中野重治が云っている。
 過去の文学では、実感というものが、私小説的に狭くとりあつかわれて来ている。その作家固有の個人的経験から生れた実感という風に解釈されている要素が多かった。そのために、一九四五年からのちの日本の社会の大きい動きのなかで働く人々として、大きい動きを経験した人々が、いざ、小説を書こうとするといつとはなしにしみこんでいる「実感」の枠――個人として書きたいと思うモティーヴと、目ざめた職場人として、書かなければならない労働者階級の日本の民主革命の課題に添っての集団的な行動経験など、その間にズレを感じる。そして、小説がかけないというゆきづまった感じをもつ場合が少くない。
 もうわたしたちは、これからの小説が生れる実感は、それがこんにちの生活からくみとられた真実の感銘であるという意味において、昔の作家たちの実感とはまるきりちがった性質のものになって来ているという事実を、勇敢に自分の上に認めなければならない時代に来ていると思う。
 生活の実感は短波が日常に及ぼす速報につれて短時間に拡大し、複雑化し、手に負えないほどになっているのに、文学の創作方法は、その実感の大きさ、ひろさ、量感をそのままとらえて再現するだけに拡大されていない。ここに、こんにちの日本の文学の深刻な苦悩と混乱がある。
 小説をかきたくてとりかかったが、どうにもこうにもまとまりがつかなくて投げてしまったり、さもなければ複雑で大きい経験と実感の中からその人として手もちの創作方法で、何とかまとめられる部分だけを切りとって、こじんまりとした一篇の小説にして見た、というような場合も少くない。しかし、本当に文学を愛し、新しい小説を生み出してゆきたいとねがうわたしたちとしては、この最少抵抗線に甘んじることはまちがっている。われわれは、自分としてしんから書きたいものを[#「書きたいものを」に傍点]、どのように書いてゆくか[#「どのように書いてゆくか」に傍点]ということに課題の中心をおきかえて努力して行く方が、具体的に文学をのばしてゆく方法だと思う。
 その人としていま、どうしても書かずにいられないと感じられているものを、いま、自分に見えているところから書いてゆきながら、てっとりばやくそれを作品にまとめようと、せき立たないことである。それよりも、むしろ書いてゆけばゆくほどかくれていたいろいろの複雑な関係がわかって来て、その関係を自分で満足するまで描き出そうとする、とまた新しくそこにわからないところも、つかめていないところも出て来る。思いがけないところで先がつまって、そとでのひと勉強――場合によっては全く文学の枠のそとで研究、経済だの組合問題だのの勉強が必要になってくるかもしれない。しかしそれは、新しい小説を創造してゆこうとするこんにちの人々にとっては、むしろ当然ではあるまいか。生活と文学の明日そのものが、その人の歴史に新しい明日であり、日本の歴史そのもののうちに新しい人民の明日としてまだ誰にも経験され、書かれていないのだから。そこにこそ、創造のよろこびとコツコツ労作をいとわないはげましとがある。文学が伝統的な枠の中だけでは決して新しくなってゆけない理由がここにある、流派や手法だけでの新しさで、文学の本質が新しくされるものではない理由がある。
 その意味で「文学のことば」もかわって来ないわけにゆかない。簡明で云おうとすること、内容がくっきりとうちだされていて、あいてによく通じるわかりやすさ。それが必要なばかりでなく、これからの文学のことばのなかには漱石も知らず、志賀直哉の生活と文学にもなく、「細雪」にもないいろいろの社会科学のことばや、科学のことばが、こなれてはいって来るようにもなるだろう。わたしたちの生活の現実で社会の関係についての常識や、人民的国際関係についての常識はどんどんひろがるのだから。

 きょうに生きるものとして、社会の自分について感じる実感の問題にもどる。
 さっき「女の一生」からひき出された話としてふれた今日の婦人の社会生活、家庭生活にある諸問題の例は、工場に働く婦人労働者の場合、一層負担の重い苦しいものになる。きょうでさえ日本の婦人労働者の賃銀は平均して男子の六〇パーセントに達していない。やすい労働力としての婦人の労働の力は、この節の合理化によって益々搾取の対象となっている。組合内家庭内の封建的な習慣もまだなくなっていない。
 だから、かりに職場で、進んだ労働者としての経験を通じて愛し合うようになり、結婚しようとする若いひとくみの男女が互の間では、随分進歩した協力的な生活設計を考えられるとして、二人ともが失業した場合、また結婚しても、どちらかがあいての親たちの生活扶助をつづけなければならないようなとき、とくに女の側にこの条件があるとき、事情ははなはだいりこんでくる。
 このような場合の苦しいいきさつを、徳永直の「はたらく人々」はアサという植字の婦人労働者を女主人公として、こくめいに描きだしている。いまから十年前にかかれたこの小説を、きょうの印刷工場に働いている若い婦人労働者、アサに似たような家庭条件でこれから結婚しようとしている若い婦人労働者がいてよんだとしたら、そのひとはどんな感想にうたれるだろう。
 モーパッサンの「女の一生」にはっきり古典を感じた彼女は、アサのような「女の一生」を自分の明日にうけとりたいと思わないだろうと思う。この小説に描かれている山岸アサが生きたよりもっと、ちがった生活をもちたいと切実にねがうにつれ、彼と彼女とは、組合の力が現実にどこまで労働者の生活を改善しているか、ということについても考えずにいられないだろう。いつになったら日本の労働者が、養老年金のとれる社会をつくるだろうと思わずにいられまい。そしてアサの時代は婦人労働者が未組織だったのだということを考え、同時に、現在は組織されていてもまだめいめいの個人生活の苦痛は、個人的な解決にまかされている部面の余り多いことにくらべて、はるかに社会保障の大きい社会主義の社会を思いくらべずにいられないだろう。遠いよその土地の美化された物語としてではなく、このごたついた、でこぼこのひどい、けなげなひとびとの足もつまずきやすい障害だらけの日本の中で、じりりじりりと推しまわされてゆかなければならない、人民の民主主義にたつ社会へ新しいまわり舞台。その仕組みについて考えるとき、彼女は若々しい人生への意欲と愛とにもえればもえるほど、ほかならない自身の肩に、しっかりうけとめて推してゆかなければならない、労働者階級の勝利への心棒があることを感じるだろう。けなげで忍耐づよいアサの知らなかった生活と文学の実感がここにある、新しい歌がある。
 文学の仕事をしてゆこうとしている人は、実感を尊重して、文学のこと以外に多くのことを学ばなければならないということは、多くの人によって云われている。いつか佐多稲子が小説を書く人の心がまえとして、意識というと階級意識と限って考えられる傾きがあるけれども、階級についての意識ばかりでなく、生活のうちにふれてくるすべてのことに意識をもたなければならないという味わいの深い言葉を書いているのを読んだことがある。実感の豊かで、強い内容は、稲子さんが云っているとおり、あらゆる場合めざめている意識をとおしてその人のうちにつみかさねられてゆく。
 意識するということは、生理的に知覚すること――ただある音がきこえた、ただあることがみえた、そして、きこえた音、見えたものごとから人間の神経がそれに応じる一定の反射作用をおこした、ということではない。意識するということは、知覚されたものの質や意味までをこめて生活感情の中に積極的にくみとるということである。そして心というものは、宙に浮いたものでなくて、かならずその人の生活とともにあるものだ。生活は社会関係の中にその人がどんな立場でおいこまれているかということに基礎をおいているから、したがって生活感情としての美の意識までも自らちがいをもってくる。知覚されたものに対しての評価と判断がある。耳にこころよいメロディーというものも、その人の全生活の内容、個々の生活の営まれている方向とのつながりをもっている。だからどんな音でもきこえて来る音に対しては受け身で、いわゆる無意識にきき流し、どんな習俗でもそれがはやりなら無意識にまねをする。そんな虚無性の一方でイデオロギーとして知識の形で、頭に入っているものだけを自分の階級性だと思ったりしているところからは、生きた実感で統一された文学が生れるわけもない。
 日本の新しい文学が生れてくるためには、おびただしい困難がある。商業ジャーナリズムの害悪はもちろんである。しかし、もっと深いところでこんにち認められる危険は、資本主義社会のいわゆる文化、娯楽が、きわめて知覚的な刺戟の連続として歌謡・バレー、あてものなどで組立てられ、プログラムづけられているということである。労働条件のわるさ――たえざる疲労と心労、生活不安と、からみあって来ているこの娯楽の知覚的な方向へのそらせかたは、よほど警戒されなければならない。働いて、くたびれた時間の全部は、じっと考えさせず、たえず音や色や動きでまぎらしてしまおうとする娯楽の知覚化――「二十の扉」や「一分ゲーム」や「私は誰でしょう」などは、瞬間瞬間をこまぎれにしてちりぢりばらばらのトピックに注意を集中させるようにできている。全く考えに沈潜する習慣を失った、散漫で、お喋りな人間――自分に何も分っていないということについて、全く気づいていない人間をつくるに役立っている。よくならされた犬のように、ヒントで支配される隷属的人民をつくるための方法であるとさえ云える。
 封建性がのこっているために、目前の権力に屈従しやすい日本の習慣の上へ、第一ヒント、第二ヒント、ヒントで導かれる心理習慣に抵抗しなかったら、わたしたちの生活と文学の自立、独立性とはどうなって行くことだろう。
 小説は、よんでいる間だけすらすらと面白ければそれでいいのだ、深刻に考えるようなあと味がのこったりしてはいけない、というあるジャーナリストの意見に正宗白鳥が賛成している。これはリーダーズ・ダイジェストの編輯方針と全く同じである。自然主義から出発して「牛部屋の臭い」というような小説をかいた白鳥が、こんにちでは日本の現実からはなれて「日本脱出」という風な作品をかいて、小説までも知覚的な気まぎらしであることに同意していることは、自然主義的な白鳥のリアリズムのこんにちにおける敗北を語っている。

 文学の創作方法としてのリアリズムについては、これからさきもますます、ことこまかに研究され、発展させられてゆく必要がある。なぜなら、リアリズムだけが、人類社会の発展の各段階と、個人の社会的
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