成長の足どりにぴったりとくっついて前進する可能をもった創作方法である。しかも、人間の経験のうちに、社会発展の法則を次第に遠くまで見とおす具体的な条件がまして来るにつれて、リアリズムは日常的な目前の現象にくっついて歩いて、その細部を描き出す単純な写実から成長して、人民の歴史を前方に展望する遠目のきくリアリズムにまで育って来る。
 リアリズムのおそろしい力は、まだほかにもある。それは文学流派としてどのようなロマンティシズムでも、シュールでも、スリラーでも、とどのどんづまりのところでは、その手法で描かれた世界が、読者に実感としてうけいれられるリアルなものとして形象化し、かたちづくって行かなければならないという現実である。つまり語ろうとする世界を在らせなければならないという客観的な真理に服さなければならないということである。ロマンティストやシュール・リアリストたちの多くは、なぜ自分がロマンティストであり、シュールであるかということを社会とのつながり、歴史の発展とのつながりというひろい視野にたって説明することは出来ない。リアリズムは、社会現象としてのロマンティシズム、シュール・リアリズムを、そのような生活感覚に分裂をおこさせる根源にさかのぼって分析し、人間理性の歪曲(ディフォーメーション)に抵抗して、新しい人間性《ヒューマニティ》の再建に向う精力を蔵している。
 シェークスピアのリアリズムは、彼の生きた十六世紀の半ばから十七世紀のはじめにかけてのヨーロッパ社会と各層の人間の活躍の可能と限界とを、あますところなく語っている。明日のわれわれのリアリズムも、こんにちのところではまだわたしたちがそれを自分の文学的な力としてこなしていない、実におびただしい多様な感動の深さ、空間的に拡がって地球をまわっている見聞の広大さ、人民解放にのぞむ国際関係の複雑な立体経験がある。これらは、みんな、シェークスピアの大天才でさえも、当時の限界によってもつことのできなかった現代の可能の一条件である。それにもかかわらず、わたしたちの文学が、今のところリアリズムにおいて、いくらか古くさく弱く、作品も断片的であるのは、資本主義社会の生活が、生産の上にも文化の上にも、全体として一つにまとまったものであるべき人間性を、細かい分業のかたにはめてしまって来ているからである。その最もいちじるしい例は、フォードの自動車工場の労働者の生活にあらわれている。フォードの極度に合理化された能率増進の分業では、一つずつの作業に、人間として最大の能力を発揮する労働者が配置されている。そのかわり、万一その労働者がその職場を追われると、彼はもうどこでも働きようがない。彼は自動車製造という長い全面工程のたった一つの小部分にだけ精通し、労働の全能力がそこに規画されていわば精巧なかたわ[#「精巧なかたわ」に傍点]にされてしまっているから、ほかのところでは役にたたない。フォードの労働者が、不景気につれて案外に低賃銀をうけ入れ、労働時間の短縮をうけいれなければ生きてこられなくなっている原因はここにある。
 人間的な労働条件はチャプリンの喜劇に示されたような人間性の機械化から、人間を解放しなければならない。文化の面でも、商業ジャーナリズムについても同じことが云われはしないだろうか。社会労働と文化の全面で、わたしたちは、まともな人間一個としての生活にふさわしい統一と釣りあいをとり戻すためにたたかって行かなければならない。その意味から云っても人民の生活エネルギーのうちにかくされ、眠らされている能力が、新しい社会感情と文学の上にめざまされて来ることなしに、文学は真実の意味で歴史的な飛躍をとげることは出来ないのである。

 そもそも人類の祖先たちが文字を発明した動機は何だったろう。洞窟に木の皮や獣の皮をまとって生活していた原始生活から発展して来て、ただその場かぎりの餌としてたべてしまうよりも多い計画的な狩猟や農耕がはじまり、交換が行われるようになると、彼らは、自分たちの、忘れるという意識の生理現象に対して、意識をめざまされ、それを生活上不便だと感じるようになって来た。そこで人類の祖先たちは、イリーンが面白く旅行しているように、一定の約束をもった長さ、短かさで棒に記号を刻みつけたり、ぶら下げた繩にそれぞれ約束できめられている形で結び目をこしらえたりしはじめた。
 人類が、火をこしらえる方法を発見したこと、それから字のはじまりである記号をもつようになったこと、この二つは、人類を他の生物から区別した。人類には、他の動物より発達した知覚があるばかりでなく、生存のためのたたかいの上におこった経験を記憶し、その多くの経験から一つの法則をひき出して来る能力があった。他の動物にない性格がある。文字の発明が、そんなに生活的な動機をもち、忘れたり、混乱したりする知覚的な不確さに抵抗する人間の分別からおこっているということは、わたしたちに、文学というものが本来ふくんでいる、厳粛な価値を考えなおさせると思う。太古の民族伝説が初めて文学にうつされたときは、その民族にとって驚異の祭日であったにちがいない。
 民族文字をもっていないアイヌには、こういう伝説がある。昔、アイヌ族が繁栄していた時代には、アイヌも立派な民族文字をもっていた。ところが、アイヌの住んでいた日本へ侵略して来た民族が、字をしまっておいた唐びつを掠奪した。そして、アイヌはこんにち自分の字をもっていないのだ、と。
 この伝説は、圧迫を蒙って来た少数民族の嘆きと憤りとを語るばかりだろうか。わたしには、そればかりと思えない。もしわたくしたちの生活に毎日毎夜うけいれている文字のすべてが、独占資本の権力によって廻転されている印刷能力からうちのめされて来る文字だけであるとしたら、数千万の文字そのものを、それなりでわたくしたちの文学の文字ということができるだろうか。
 文学に大切な実感はこのように基本的な文字そのものの性格の検討にまで及んで行かないわけにゆかない。
 人類のもつ美しく立派な文学の一つでもが、何かの意味で無情な破壊力の抗議であり、人間の訴えと欲求に立っていないものがあっただろうか。
 世界文学の中に日本の現代文学がどういう価値をもつかということは、決して「細雪」をもっていることだけでは計られない。新しい歴史がひらけたアジアで、独特な辛苦の立場におかれている島国・日本の人民が、どのように自身を世界平和かくらんのために使役されることからまもり、自身と世界の良心のために、これまでだまっていたつましい人民が、どんなにいろいろさまざまの現実について発言しようとしているというところに、これからの日本の人民の文学の評価のよりどころがある。そのような文学の細目が、しだいに日本の文学史を変革してゆくであろう。[#地付き]〔一九五〇年三月〕



底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
   1952(昭和27)年5月発行
初出:「入門文学講座 第三巻」新日本文学会
   1950(昭和25)年3月
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング