文学と生活
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)人間性《ヒューマニティ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)小説を書こうとするほどの人ならば[#「小説を書こうとするほどの人ならば」に傍点]
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この講座でわたしの受けもちは「文学と生活」である。この課題は、考えれば考えるほど複雑で規模が大きい。どこからまとめていいかわからないような心持さえする。すべての文学は生活から生れ、生活のうちにかえってそこに生きついてゆく。生活と文学のこの関係は万葉集の時代から今日までつづいている。だから歴史的にみてくると、文学と生活はとりもなおさず階級社会とその文学史のようなものになりかねない。ところでその社会と文学との関係については第二巻で蔵原惟人が「文学と世界観」を書いているし、第四巻では近藤忠義が「日本の古典」を書いている。また同じ第四巻にはいろいろの角度から日本の文学、プロレタリア文学の歴史がとりあげられることになっている。広い意味でいえば、これらの題目はみんな文学と生活の関係を語るものである。
では、わたしはどういうことから話しだすのが便利な方法だろう。この文学講座第一巻に中野重治が「これから小説をかく人へ」という文章を書いている。これはわかり易く、そしてふれなければならない大事な話もおとしていない。第一巻を読んだ人がつまり第四巻を読むのだろうし、またその逆でもあるわけだろうから、わたしは中野重治がふれているいくつかの点をもう少しつっこんで話してみることにしようと思う。
中野重治は小説を書こうとするほどの人ならば[#「小説を書こうとするほどの人ならば」に傍点]その人は人生を愛して、人のためにも骨おしみをしない者でなければならないこと――できることは必ずすすんで実行する勇気をもった人であるべきことをいっている。そして小説を書くほどの人は[#「そして小説を書くほどの人は」に傍点]、人類が尊い努力と犠牲によって歴史をおしすすめてきた真理に対して私心なくその価値を認めて、人々とともにその人間の知慧の成果を分けもつことを心からよろこべる人であるはず、とも云っている。文学と生活との関係については、これらが本当にかなめ[#「かなめ」に傍点]なところだと思う。
戦争中日本のわたしたちが軍国主義一点ばりの権力によって、どんな日々を送りどんな死にかたをさせられ、きょうの生活にいたっているかということをふかく思えば、この四年間、日本の人民が「人間として生きる権利」をとり戻すために各方面に骨を折ってきた意義は実に大きい。けれども一九四九年には吉田内閣が議会で絶対多数の勢をかりて、旧い支配階級の勢力をもりかえし、人民がこの社会をもう少しは人間らしく、平和で安心して、住みよいところにしたいと思って試みるあれやこれやの努力を抑圧するために数々の法律や規則をつくった。日本の民主化は非常にジグザグなコースをとって根気づよく、人民の力によって行われなければならない内外の事情におかれている。文学もこの事実からきりはなして語られることではない。
文学が人間生活に対する理解と共感とにたつ愛と努力の社会的な行為だということはあきらかだとして、人間を愛するということ、人生をまじめに受けとって歴史とともに自分もひとも成長させてゆくということは具体的にはどういうことをさすのだろう。ひたすら生活に風波をおこさないようにして、世間のしきたりをそのまま受けついで、その枠のなかで、月、雪、花のながめをたのしんだりして生きてゆくことだろうか。たとえば「細雪」の世界のように。それとも、今日いわゆる中間小説というものを書いておびただしい収入を得ている作家のある人たちが生きているように、そのふんだんな経済力で、妻をはじめ一家のなかをにぎやかに満足させて、非難をおさえておきさえすれば自分の男としてまた社会人としての異性関係などは、雄鶏一羽に雌鶏四五羽という風な生活をしても、生活と文学とは愛されているといえるのだろうか。
トルストイやドストイェフスキーの小説には貧しい不幸な人々に対する同情と、とみ栄えて権力を争って、冷酷な利己心に一生をつらぬかれている貴族たちに対する批判が強くあらわれている。これらの作家たちは、婦人の社会的な立場に対しても、ただのがんろう物[#「がんろう物」に傍点]ではない人間としての心を見出そうとしている。ドストイェフスキーの異常な小説の中には、いくたりかの強い特色のある女性の性格が描き出されている。「罪と罰」のソーニアのように。トルストイの「復活」のカチューシャの経歴とそれを通じて語られている彼女の人間としての抗議は、文学を愛するすべての人に知られている。モーパッサンの「女の一生」も。
これらの古典の中にはわたしたちの心をひきつける人生の姿がまざまざと描かれているが、わたしたち自身が自分で文をつくり出してゆく時は、原稿紙のわきにどれほど傑作をつみあげておいても何の役にもたたない。それどころかわたしたちは不思議なことを発見している。人生を深くとらえて描き出し、読む人の心をひきつける作品というものは、奇妙な力をもっていて、読者がまじめに、その作品の世界に入ってゆけばゆくほど、ますますひろく、ますます深く、日頃は何となくすぎてきた自分の生いたちや親たちの人生、いまの自分の生活とその中にあるいくつかの問題などについて、はっきり眼をさまさせられてくるものである。これは、おそらく小説を書こうという気持をもっているすべての人が、しっかりした作品を読んでゆく間に経験している心持であろうと思う。いい作品はその作品の世界がわたしたちの生活をひろくゆたかにするばかりではなく、わたしたち自身の生活を見直させ、自分として是非これはかいて見たいと思うテーマを発見させさえもする。
小説のおもしろさ、がここにあり、文学が、人生の教師であると云われることの意味も、ここにある。よい小説にひきこまれるおもしろさは、ただつぎにくりひろげられる情景の変化につれられてゆく気持ばかりではない。事件の発展につれて登場しているいくたりかの男女は、それぞれに人間としての心のかぎりをつくして行動し、事件そのものに捲き込まれていながらも、同時に事件そのものを判断する関係におかれている。その過程が読むものの心にまた独特の反響をよびさましてゆく、そのおもしろさである。言葉をかえていえば、わたしたちはその作品の世界にひきこまれることで、自分だけの日常には経験されていない人生の複雑な諸関係の間を通過しながら、自分だけの生活では自覚されていなかった社会関係、そこから生じる人間感情の葛藤と進展と批判をみいだすのである。わたしたちはそういう意味で、しっかりした文学作品をよむときには作品の世界の展開につれて、同時的に自分の生活の風景とその地理とを知らず知らずのうちに対比し、同時的にみなおし、評価してゆくという精神の労作を経験する。生活と文学の深い根がここにある。漫才や軽音楽やカストリ小説の、時にとってはおもしろいかもしれないけれども、感覚の中をただ通りすぎてゆく間だけの気紛らしとは全く質のちがう文学の存在意義がある。
モーパッサンの「女の一生」は、こんにちも多くの人によまれている。特に日本では「女の一生」の主人公ジャンヌの運命は、まだまだ多くの婦人の運命につながったところがある。今日「女の一生」を読む日本の若い婦人たちは、あわれなジャンヌに同情し、憲法の文字の上だけ変っても、現実にのこる婦人の社会的な無力さについて痛感するであろうが、そこまでは誰でも同じだとして、それから先に、現代の日本の若い婦人のうちにあるいくつかのタイプがそれぞれのちがいをもって社会的反応を表してくるだろう。
即ち一つのタイプはモーパッサンがこの小説を書いた時代(一八八三年)と一九五〇年の世界――その中でのフランス、その中での日本の歴史は非常に変化して来ていて、社会の現実はちがっていることには大して注目しないで、ごく大まかに、やっぱり女の人生ってどこの国でも同じなのねえと嘆息し、ぼんやりと、わたしはこんな一生は欲しくない、もっとたのしい女の人生だってあっていいわけだわとジャンヌの末路をおそろしく感じる。
こういう受けとり方をする人の生活そのものを突っこんでみると、その人にとっては人生そのものが大体小説のよみかたに似た風に感じとられ、運ばれていることを語っているともいえる。女の悲惨な運命に対してそれをいやがり拒絶したい気持はもとよりあるけれども、それならばといって積極的にこの社会での、婦人の立場をより希望のある楽しい人間らしいものにしてゆくために、自分としてはどの点をどうしてみようという主動的な決断と行為がなくて、結婚についても、不幸になりたくないという漠然とした最低線を感じているような人である場合が多い。組合の中でいえば、それは資本家はひどいけれど、わたしたちの技術だってまだ男なみでないんですもの、というように、現象だけをとらえて、社会関係の本質まではっきりとつかまない人々であるかも知れない。
第二にはこういうタイプが考えられる。その人は文学作品もいろいろよんでいて「女の一生」のほかに「復活」もよみ、スタンダールの「赤と黒」もよみ、レマルクの「凱旋門」もよみ、「風とともに去りぬ」もよんでいるとする。同時に「たけくらべ」「にごりえ」をよんだことがあるし、「あぶら照り」「妻の座」も読んでいるとする。「伸子」を読んでいるかもしれない。そしてこれらのすべての作品をそれの書かれた時代の順にくらべて考えてみる力ももっている。「女の一生」のジャンヌと「凱旋門」のジョアン・マズーとの間にどれだけ大きなヨーロッパの資本主義社会全体の変化が語られているかということを理解し、スカーレット・オハラの強い性格が南北戦争の波瀾を通じて精力的に日々の生活ととっくみながら、いわゆる逞しく生きとおされながら、その窮極では一つも社会的な人間としての性格発展なしに、もとの自分の農園にかえってゆく、そのように通過された生活があるだけの人生の生き方について疑問をもっている。「にごりえ」の世界を、現代の売笑の女の気風とくらべたり、「妻の座」を「あぶら照り」や「伸子」とともに「女の一生」と連関させて考えることもできる。
そういう人は世間でいう文学の話せる人[#「文学の話せる人」に傍点]の、タイプである。今日の世界民主婦人連盟について知っており、ソヴェト同盟や中国の新しい社会で婦人がどう生活しはじめているかということについても、相当に知っているだろう。日本をこめる世界の帝国主義が、世界の全人民の幸福と平和にとって、どんな役割をもっているかということも、分っているだろう。そして日本の文化や社会の習慣から封建と軍国主義的な影がとり去られなければならないことを、身をもって感じている。男友達と映画や芝居を見に行ったり、泊りがけのピクニックにでかけたりすることも、職場で若い女性が男性と一緒に働いて、一緒に組合運動をして、一緒に働くものの青春を守っているのだから、当然一緒に青春を楽しむのだというたてまえが主張された上での行動として、されてもいるだろう。おそらく彼女は、冒険をさけてばかりはいない性格であろうし、刻々の条件のなかで楽しさをひき出し、自分とひととの愉快のために雰囲気をつくるかしこさも持ちあわしているだろう。そういう面から見たとき、彼女は婦人雑誌でいう教養も、話題に困らないほどはゆたかで、女として人間として活溌であるものの面白さを自分の身に添えて表現する技術も理解し、わきまえている近代的[#「近代的」に傍点]な若い婦人であるということが出来よう。
しかし、この頃よくあるように、家庭のある男の人と恋愛めいたいきさつがはじまったようなとき、あるいは、そういういきさつが自分の人生に起りかかっているのを自覚したとき、そのひとは、現実の人生問題をゆたかな文学的教養とむすびあわせて、どのように身を処していくだろうか。トルストイの小説
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