の中には、トルストイがロシアの上流社会の習慣に抱いていた批判から「アンナ・カレーニナ」がかかれ、「クロイツェル・ソナタ」が書かれている。彼女はこれらの作品の中に眼の前にさし迫っている自分の人生問題の解決のきっかけをつかむことはできまい。それならばその頁の上に、まともに立っている男女の姿が見当らないほど、みだれにみだれて、その誇張が読者の好奇心をそそってゆくような肉体小説の氾濫の中に、人生に対するよりどころだの、自分の良心の拠点だけが見出されるというのだろうか。社会主義の社会での婦人勤労状態や日常生活のあらそいを理解しており、「家族・私有財産・国家の起源」も婦人の歴史的地位を語る本としてあれほど分って読んだと思うのに、身に迫った男女関係の著しく不幸な戦後的混乱の前には、われからたじろぐ感情があることを、その人は、どんな人生と文学の角度から処置する決意をもつだろう。そのいきさつを肯定するにしろ、否定するにしろ。「当節の若い女性は中年紳士がお好き」という色ペンキで塗られたバラックのような風潮から、自分と自分の事件の本質を区別して、人間らしく生きようとしている人間として、社会人として責任の負える立場でつかんで、処してゆくために。文学ともいえない読物の中には、重役と女秘書、闇の事業の経営者とその婦人助手のいきさつなどがはやっているけれども、パール・バックの「この心の誇り」にとらえようとされている女性の自立の世界と、それはどんなにちがっているかということを見くらべるにつけても、その人は自分の立場をどの点において、判断して行動してゆくだろう。もしその人が小説を書くならば、そこには社交的な恋愛から結婚が、仕事の協力者として発見された人と人との間の愛と結合に発展してゆく「この心の誇り」ともちがい、ただありふれた三角関係をそのままにうけ入れてかこうとしているのでもない、新しい女性としての人生発見のいきさつが、その矛盾のはげしい高低とたたかいの姿でかかれなければならないわけになる。新しいモラルが見出されなければならない。そして、生活と文学とをひとつらぬきにしたその努力がつきつめられてゆくにつれて、日本の現在の社会のままでは主観的に愛情の内容がいろいろにたかめられ、社会化されたモメントにたっているとしても主婦、という立場で日々のいとなみがあんまり女性にとって重い負担だから、当然主婦と職業の矛盾、衝突の問題が考えられずにはいない。なぜなら、「この心の誇り」の男主人公は、無駄な時間をトランプ遊びについやして、空虚に愛情ばかりをせがんでいる妻をもつ科学者だった。彼は自分の仕事に助手として働く若い婦人に自分の生涯をかけた仕事と人生の真実なみちづれをみ出してゆく。そしてそこに新しい生活がきずき直された。
 こういう小説のテーマは第二次大戦前においては、日本の文学にとっても、ある新しい社会的意味をもっていた。けれども、こんにちのとくに日本で、生活を現実的にたたかっている職場の若い婦人が、男の側からの人生の再要求とでも云える、「もっと新しい内容での結合という進歩的な意義」との説得に、新しい愛人としての優越感ばかりで誇らかであり得るだろうか。職場で働き、職場でたたかいつつある若い独立した婦人であったらばこそ、女の上に新鮮な意志と情感が花咲いていた。もしせまい家庭にかがまって夫に依存する女になったら、急に色あせ、しぼむことはないものだろうか。二人で働いて、たたかって生きてゆこうというのならば、きょうの日本では、まだまだ婦人よりも「家庭をもつ」男性の感情のなかに整理されなければならないものがある。「家庭」がそれだけ魅力であり、それだけ大きい負担であるという現実は、日本の社会施設が働いて生きている男女とその子供、老人たちにとって安心と幸福とを与えるものでないという証拠にほかならない。一人の初々しかった二十歳の女性がきょうまで十五年の間に、頭も胸も硬くこわばって、三人の子供の母として日常生活の中に灰色になってしまったからと云って、そのこんにち、二十歳の新しい婦人が一人の女をそのようにあらせてしまったそのままの男と、そのままの社会と組みあわされたとして、その十五年後に、かつてはみられなかった彼女の顔の上に見られるものは何だろう。その十五年の後に、一層しっかりと人間らしさを発展させた自身を彼女が見出そうとするならば、過去の年月の間で一人の女性を化石させてしまった家庭というもののありかた、夫というもののありかたそのものを、日本の社会の問題として批判し闘ってゆく男の新しい社会観念とともに、出発しなければならないだろう。そして、たくさん、自分とあいての人とのもつ矛盾にぶつかってゆくだろう。もし彼女と彼とが人間らしければ、それらの絶え間なくおこる矛盾をお互の間で、またお互と外部との間で前進的に社会的に解決してゆこうとする張りあいのうちにしか、いわゆる幸福とか歴史的価値への信頼というものはないことをも発見してゆくだろう。
 このような一つの例は、小説を書こうとする若い女性に、あるいは若い男性に、文学の創作方法がもっている生きた歴史を会得させるきっかけにもなるかも知れない。平凡な物憂い夫婦生活と、はんこで押したような勤め先の仕事。そのものうさを人生の姿としてそれなりに訴えずにいられなくて、書きはじめられた小説が、考えすすみ書きすすむままに、やがて次第にすべてそれらのものうさの原因を、主人公の内部にあるものと、外の社会とのありかたとの関係のうちに批判をともなって、発見されてゆきはじめる。リアリズムは批判的なリアリズムと成長しずにいない。そして、その批判が、組合の仕事や日本の国内、国外の社会事情についてより科学的な知識をひろげてゆくにつれて、愛情そのものさえ歴史の脈動とともに性格づけられるものであることが発見されてくる。ただイデオロギーとして社会主義が分ってきたばかりでなく、人間は幸福を求めているというなまなましく根強い実感、熱情そのものとして個人の人生も歴史の展望の中に見とおされて来たときの社会主義的リアリズムの創作方法。
 文学の創作方法が社会の歴史の発展につれて、階級社会の認識の確立とともに、そして新しい形態での人民社会の建設の成果とともに、一歩一歩とより広い展望におしすすめられて現在に至っていることは、一人の個人の社会と人生と文学の世界の見とおしとひろがりについて見ても、実によく分る。今日の社会で過去の私小説の現実のつかみかた、書き方では、主人公一人の実感さえ、それが現実にある複雑さではとらえきれなくなっている、これは明瞭である。
 現実のいりこんだ関係がこんにちのように複雑になると、これまでのせまい創作方法ではその全部の内容をいちどきにつかみとることができなくなって、リアリズムなんかは古くさい、何かもっと現代をがっしりつかむ創作方法を、という要求も起る。日本のジャーナリズム小説の大半を占めている風俗小説――中間小説とよばれている作品の作者たちは、戦後の日本のどっちを見てもバラック、ガタガタなあさましい世相を、これまでの私小説的手法ではうつしきれないと、そこからとび出た形として主張している。
 なるほど私小説、心境小説の限界は、はっきりしている。けれども、社会のはげしく移り変る世相そのものをただ追っかけて、漁って、ちょっと珍しい局面を描き出したとして、それはたしかにそういうこともあり、そうでもあるかもしれないけれど、往来に向ってとりつけられたショーウィンドが、何でもただ映すのとどれほどのちがいがあろう。文学としての現実の芯のふかいところにまでふれたものだろうか。
 どんな文学の初心者でも一人の人の顔にあらわれる表情や動作には、きっと内部の心とつながりがあることを知っている。だからこそ「彼女は無意識にマフラーの結び目へ手をやった」というような動作の描写が、むこうから近づいてきたまちの人の姿を眼に入れた瞬間の、彼女のしぐさとして描かれる必要も生れてくる。一人の人の表情、動作についてさえ、文学の目というものがそこまで立ち入るものであるなら、社会の集団が集団的に表情している表情やもののやり方――たとえば金銭とか男女関係のありかたなどにも、その人びととしては無意識にそうなってゆく、または居直ってそうしている底の原因までが文学の目で見出されなければならない。

 一つのコップのスケッチでも、それは影を正しく描き出されることではじめてコップという立体的な物体としてあらわされる。平面的に見えている側だけ書いても、それは五つか六つの子供の絵でしかない。童画は、原始人の絵画のように単純だが、鋭い感受性にパッと強くうつったその面だけの印象をうつすから、小さい子の絵はたいてい人間の丸い顔からはじまる。鼻や耳の細部は全然見おとされるか、さもなければあっさり描かれて、たいてい二つの眼が印象の中に大きく強く、とらえられている。それから口が。これは子供の脳細胞の生理的な発育の段階を語っている。
 風俗小説、中間小説の題材とテーマが性に最大の重点をおき、その点にばかり拡大鏡をあてて人間関係を見た状態を、この童画の心理にひきくらべて考えると、その気狂いじみた性への執念はむしろおろかしく、物狂わしい非人間生活の図絵としかみえない。社会が未開であったとき、性の神秘は人間誕生のおごそかなおどろきとむすびあわされて、性器崇拝となった場合もあった。けれども日本のいまの肉体文学のように、人間の理性の働きの面を抹殺した性への溺死は、軍国主義やファシズムの人間性抹殺のうらがえしの現象である。日本の敗戦がこういう社会経済事情をもたらしたから、いわゆる性的失業者、半失業者がふえて一種の性的飢餓の心理がある。だから両性関係は混乱するのはさけがたいとされる見かたがある。その同じ理由からエロチックな中間小説が氾濫するといわれてもいるが、人生を大切に思っているすべての人の心には、このみじめな循環法にたつ説明だけでは納得できないものがある。こんな男にとっても、女にとっても不幸な混乱をそのままにうけとっているだけではいられない気持がある。率直に人生のよろこびの泉として性をきらめかせたいと願う者は、人間としての愛とモメントからきりはなして考えることができない。女にとって男を殺し、男にとって女を殺し、半ばひらいた美しい人間の精神とその性を殲滅する戦争こそ拒絶しずにはいられない。性は母性父性にまでひろがって、人間の性の正当なあつかいかたを求めて叫んでいると思う。精神の解放の証拠としての肉体解放というならば、それはとぐろをまいた肉体文学を突破して、先ず性の根元である生命の人間らしい愛と、その自主性の確立――少くとも戦争と失業のない社会を主張するために闘っている肉体の行動が、現代文学のうちにとらえられて自然だと思う。
 実さいではみんながそういう風にやっているのだ。組合の活動にしろ戦争反対、ファシズム反対を持するこころもちとその行動、金でいえば五千円の越年資金を闘いとる行動にしろ、みんなその本質は解放を求める人民としての精神が、肉体の行為によってしめされたものである。だのに、どうして文学ではこの実際であるとおりにとらえられないで、肉体の行為が性行為への興味にしか集中されないのだろう。へんなことではないだろうか。このことは今日の私たちが、生活と文学における自分の肉体の新しい価値、新しい美を見出し、未来のミケランジェロのために、深く追求してゆくべき点だと思う。現代の進歩的な文学が肉体の叫びの新しい局面をその文学的実感の中にとらえてゆくことは、私たちが思っているよりも重大な意味をふくんでいると考えられる。
 ストライキ一つをとってみても、そこに幾十幾百幾千の男女のなまなましく生き、軟く、暴力には傷けられる肉体がある。その肉体の一つ一つが一つ一つの人生を支えている。或は一つの肉体によって数人の生命が支えられてさえいる。労働階級にとって肉体と人生との統一のきびしさは、労働力を売って生きて行かなければならないというおそろしい緊張のうちに示されている。パンを
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