重吉の膝を撫でた。
「一日じゅう、あんないやな気持で仕事していらしたの、わるかったわねえ」
「そうでもないさ」
率直に重吉は云った。
「家の近くへ来るにつれて、だんだんいやな気持になったんだ」
「そりゃそうね、ああ思えば、もう本質的に家なんてどこにもないんですもの」
うちがない、ということは、ひろ子にどっさりのことを思わせた。十月十日に解放された重吉の同志たちの主だった人々は、殆どみんな妻をもたず、従ってうちをもっていなかった。うちも妻も、闘争の永い過程にいろいろな形でこわされ、とられた。人間らしさを極限まではぎとられた。その痛苦から屈従させようと試みられた。ひろ子にしろ、つかまる度に、女の看守長にまで云われることは、重吉の妻になっているな、ということだった。一層軟かく重吉の膝に頭を埋めながら、ひろ子は、
「げんまん」
重吉に向って小指をさし出した。
「二度ともう憎らしいことは云わないから、あなたも約束して。さっきのようなことは云いっこなし」
自分たちの生活を毒し、あわよくば其をこわす力は、決して無くなっていない。ひろ子は身をひきしめてそのことを思った。正面から攻撃しなくなったとき、それは、嘗て打撃を加えたその痕跡から、そのひずみから、なお襲いかかって来る。ひろ子は、頬をもたせている重吉の左の膝の上の方を考え沈みながら撫でた。そこに、着物の上からもかすかにわかる肉の凹《へこ》みがあった。大腿のところに、木刀か竹刀かで、内出血して、筋肉の組織がこわされるまで擲《なぐ》り叩いて重吉を拷問した丁度その幅に肉が凹んでいて、今も決して癒らずのこっているのであった。
四
腰かける高いテーブルで、重吉が書きものをしていた。その下に低い机をすえて、ひろ子が、その清書をやっていた。
「何だか足のさきがつめたいな」
重吉が、日ざしは暖かいのに、という風に南の縁側の日向を眺めながら云った。十一月に入ったばかりの穏やかな昼すぎであった。
「ほんとなら今頃菊の花がきれいなのにね」
毛布を重吉の足にかけながらひろ子が云った。
「この辺は花やもすっかり焼けちまったのよ」
焼跡にかこまれたその界隈《かいわい》は、初冬のしずけさも明るさも例年とはちがったひろさで感じられた。夜になると、田端の汽車の汽笛が、つい間近にきこえて来た。
「久しぶりで、たっぷり炭をおこして
前へ
次へ
全46ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング