風知草
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)茶紬《ちゃつむぎ》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)作業用|手套《てぶくろ》を
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)きっかけ[#「きっかけ」に傍点]を自分からとらえることは
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一
大きな実験用テーブルの上には、大小無数の試験管、ガラス棒のつっこまれたままのビーカア。フラスコ。大さの順に並んだふたつきのガラス容器などがのせられている。何という名か、そして何に使われるものかわからないガラスのくねった長いパイプが上の棚から下っている。透明なかげを投げあっているガラスどもの上に、十月下旬の午後の光線がさしていた。武蔵野の雑木林のなかに建てられている研究所は自然の深い静寂にかこまれていて、実験室の中には微かにガスの燃える音がしていた。一隅の凹んだところで、何かの薬物が煮られているのであった。
ドアに近い実験用テーブルの端に、小さい電気コンロがのっていた。その上に、金網のきれぱしが置かれ、薄く切ったさつまいもが載せられている。まわりに、茶のみ茶碗、鮭カンの半分以上からになったの、手製のパンなどが、ひろげられている。
静かな、すみとおった空気の中に、いもの焼ける匂いが微かに漂いはじめた。
「そろそろやけて来たらしいね」
「……もうすこうしね」
「そっちの、こげやしないか」
「そうかしら」
実験用テーブルの端へもたれのある布張椅子をひきよせて、いものやけるのをのぞいているのは、重吉であった。親しい友達がもって来てくれた柄の大きすぎるホームスパンの古服を着て、ひろ子が彼の故郷からリュックに入れて背負って来た靴をはいて、いものやけるのを見ている。無期懲役で網走にやられていた重吉は、十二年ぶりで、十月十日に解放された。いが栗に刈られた重吉の髪は、まだ殆どのびていない。
ひろ子は、元禄袖の羽織に、茶紬《ちゃつむぎ》のもんぺをはいて、実験用の丸椅子にかけ、コンロの世話をやいていた。
「さあ、もうこれはよくってよ」
「――あまいねえ。ひろ子もたべて御覧」
「網走においもはあったこと?」
「あっちは、じゃがいもだ。農園刑務所だからね、囚人たちでつくっているんだ」
「あなたなんか和裁工でも、じゃがいもぐらいは、たっぷりあがれた
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