命じた。
二
秋の夕暮のかすかな靄《もや》が立ちのぼりはじめた雑木林の間の小径《こみち》を、重吉とひろ子とは駅まで歩いた。どっちからともなく手をつなぎあって、ゆっくりと歩いた。
「お疲れにならない?」
「そうでもないよ」
「来てよかったわねえ」
「見当がついたからね」
乗りものの様子がわからなかったりするからばかりでなく、ひろ子は重吉が帰ってから、出かけるときは大抵一緒に出た。研究所へ来る郊外電車は、時間のせいか思ったよりすいていて重吉は吊革につかまりながら窓外を駛《はし》りすぎる森や畑の景色を飽きずにじっと眺めていた。何の拘束もうけず、どこへでも歩き、そうして田舎の景色の間を進み、ひろ子もついてそこに来ている。このあたりまえさが、自分たちにとってあたりまえなことになったという異常なめずらしさ。来る電車の中で、ひろびろとした田野の眺望の間を駛りながら、この感じがつよく重吉の胸に湧いたらしかった。重吉は、あたりにのり合わせている人々の視線を心づかないように並んで立っていたひろ子の肩に手をおいた。そして低い声で、
「あるくのも、一緒でいいねえ」
と云った。ひろ子は、微に上気して重吉を見た。重吉は、あたりの乗客たちを全く見ていなかった。しかし、ひろ子を見ているのでもなかった。視線は窓の外を駛りすぎる外景に吸いよせられている。重吉の手と重吉の声とは、もしかしたら重吉が心づかないうちに、こうして生活はとりかえされた、という抑えがたい感銘を表現したのかもしれなかった。
夕闇の林間道をあるきながら、重吉は、
「今ごろ、電車、どうだろう」
と云った。
「こみかた?」
「来たとき位ならいいね」
「ひどいと思うわ、時間がよくないんですもの」
その駅にどっさりの乗客が待っているというのではなかったが、灯をつけて走って来た電車は満員だった。
「どうなさる?」
列に立っている重吉の背中を押すようにしながらひろ子があわてて相談した。
「おいや? あとだと、一時間待つのよ」
重吉は、黙って一寸|躊躇《ちゅうちょ》した。
「のってしまいましょう、あんまりおそくなるわ」
そう云いながら、ひろ子は自分の体ごと重吉を車内におしこんだ。重吉は、ほかの乗客の足をふむまいとして無理な姿勢で立って、発車するとき、ひどくよろけた。こむ乗物の中で、粗暴な群集にも乗ものそのものにもま
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