子は、これらの話をきいたとき泣いた。重吉と自分とに与えられた愉悦に対して謙遜になった。これらの人々はどんなに生きたかったであろうか、と。
 ひろ子は、実験用テーブルの前の円椅子から立ち上った。水道のところへ行って、自分たちの使った茶のみと、そこに漬けてあった二つ三つの皿小鉢を洗った。わきの窓から、建物だけ出来てまだ内部設備がされていない別の一棟が眺められた。その棟の空虚な窓々は、秋の午後に寂しく見えた。
 ――しかし、思えば、感動深く厳粛なこのたびの治安維持法の撤廃と思想犯の解放につれても、故意か偶然か、ひろ子などには判断のつかない混同が行われていた。今度出獄したすべてのものが治安維持法の尊敬すべき犠牲者、英雄のように新聞やラジオで語り、語られているのであったが、その中に、元来が積極的な戦争強行論者で、その点が当時として反政府的であったために拘禁されていたというような人物までがまじっていた。その男が多弁に「民主的」に、権力を非難し野蛮なる法律を攻撃しているのであった。

 話しながら廊下をこちらへ来る吉岡の声がした。重吉が、手さぐりで結んだネクタイを横っちょに曲げた明るい顔でドアをあけた。
「いかが?」
「案外だった」
「そんなによくなっていたの?」
「いい塩梅に病竈《びょうそう》がどれも小さかったんですね」
 吉岡が煙草に火をつけながら云った。
「大体みんなかたまっていますよ。この分なら、無理さえしなければ大丈夫と云えますね」
「石田に無理さえしなけりゃと、云うのが抑々《そもそも》無理らしいわ。――でも、よかったことねえ。ありがとう」
 ひろ子は、椅子の背にかかっていた上着をとって重吉にきいた。
「お着にならないの?」
「もう一遍行くんだ――そうでしょう?」
「肺尖のところが、どうもよく見えなかったんです、丁度鎖骨の下だもんだから。ついでに、見直しておいた方がいいでしょう。血管がそこでいくらか太くなっているから、先の方に全然何もないって筈はないんですがね」
 肺尖のところは、二度目にも骨に遮られてよく映らなかった。吉岡は、
「石田さんは、自分の体についちゃもう専門家なわけだから大丈夫でしょうが、何しろ、ちゃんと証人が立っているんですからね」
 肺尖部の血管のふくれが何を意味し、何を警告しているかを説明した。そして、
「まあ三月に一度は必ずしらべられるんですな」

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