して、明るくしたり、パタパタと何かを払うように耳を叩いて見たりする。けれども、益々、心持は落付かない。どうもおかしい。このとき、彼の心には、明かに、「夜」に対する伝説的恐怖が目覚めて来るのである。
 怪鳥が人間の魂を狙って飛び廻るとき、死人が蘇返って動き出すとき、悪霊、死霊が跳梁するとき、それが、彼の子供のときから頭に滲《し》み込んでいる夜の観念である。
 暗い夜に外を歩くと、化物に出会って、逃げる間もなく殺されるぞと云われ云われした彼は、今もなお、囲い一重外の夜、闇に対して、深い恐怖と神秘とを抱いている。
 その遺伝的な恐怖が湧き上ると、彼は居堪れないように成って、神々に祷りをあげる。
 一生懸命に謡を歌う。犬にふざける。そして、暁の薄明りが差し始めると、ようよう疲れ切った眠りに入るのである。
 斯様に、S山で余り寂しすぎる一冬を送った彼は、すっかり頭を悪くした。体も悪くなった。けれども、イレンカトムは、自分の転居が失敗だったとは思わない。彼は一言も洩さなかったけれども、自分が若し万一病気にでも成れば、部落ではすぐ近所の者が知っていろいろな物を盗もうとするかもしれない。がここにいれば
前へ 次へ
全41ページ中25ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング