ぎそういうものにとりついて行って、それらの芸術の逸品に籠っている高い気品、精魂、芳香に面をうたれて、今更に古典の美を痛感すると一緒に分別をも失って、それぞれの芸術のつくられた環境の意味と今日の私たちの現実との関係を見失った欽仰讚美の美文をつらねる流行をも生じた。私は俳諧の道にはよらず散文の道をとおって、この芸術の大先達に近づいて見たいと思う。後年、芭蕉が芸術の完成へ辿りついたまでのいきさつというものは、時代と人との相互的な姿を示して感興つきないものがある。誰でも知るとおり、芭蕉は生まれたときからこの名を持っていたのでない。松尾宗房と云い、伊賀国上野町の城代藤堂家の家臣で、少年から青年時代のはじまりはその城代の嫡子の近侍をしていた。既にその時代、俳諧は大流行していて若殿自身蝉吟という俳号をもって、談林派の俳人季吟の弟子であった。宗房もその相手をし早くから俳諧にはふれていたとみられている。「犬と猿世の中良かれ酉の年」というような句を十四歳頃作ったという云いつたえもある。
 蝉吟公が没して、当時二十三四歳であった宗房は「雲と隔つ友かや雁の生別れ」という句を親友に残して上野町から京大阪へ出奔し
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