う気持にかかずらうことはちっともいらないと思う。私たちの今日に生きている感覚に訴えるものをもっていなくて、しかし文学古典の表の中では意味をもっているという作品は実にどっさりある。その場合は、現代の心に響くものはないということに、歴史のすすみの歓びがあるのであって、古典にとっても現代にとっても些も不名誉なことではないと思う。でも、芭蕉の芸術はどうだろう。私は俳諧のことは何にも知らない。全くの門外漢なのだけれども、折々読んだ句集の中から与えられて来ている感銘が多く深いところをみれば、彼の芸術には今の瞬間に息づいている何ものかがあるにちがいない。ここにぬきがきした僅の句は、私たちに理解されるというばかりでなく真実の共感があるものばかりである。芭蕉の芸術の特質である「さび」は同時に日本人の人生態度の底を流れるものであるから、芭蕉の分らない日本人というものはあり得ない。そういう通俗の断論はこれまでに随分流布している。特に、この三四年は日本が日本を再発見する必要に立たされて、文化や芸術の面で日本の古典が再認識を試みられるようになって来た。そして、これまで余り古典にふれなかった文化層の人々がとりいそ
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