が発行された。
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一九三八年(昭和十三年)
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この年一月から翌年の四、五月ぐらいまで作品の発表が不可能になった。戦争がすすむにつれて出版物の検閲は、ますますひどくなって編輯者たちは何を標準に発禁をさけてよいか分らなかった。それほど日本における言論の抑圧は急テンポに進行していた。内務省警保局で検閲をしていた。その役人とジャーナリストたちとの定期会見の席で、あるジャーナリストから編輯上の判断に困るから内務省として執筆を希望しない作家、評論家を指名してくれといったために、当局としては個人指名までを考えてはいなかったのに、数名の人の生活権をおびやかすような結果になった。これは内務省の検閲課の役人が中野重治と私が事情を聞きに行ったときに答えた言葉であった。この時、実質上の執筆禁止をうけた人は、作家では中野重治、宮本百合子、評論家では六、七人の人があった。内務省では、すぐ手紙をよこして自分の立場を釈明してきた人々があり、その人に対しては早速適当な処置をとると云った。中野と私とは、そういう方法はとらないことにした。そして私は私の監視者である保護観察所の所長に会って、執筆禁止の不当なことと、生活権を奪ったことについての異議を申したてた。当時は、一般ジャーナリズム、文化人がまだこのような言論抑圧に対して、その不当を表明するだけの気持をもっていた。各方面から内務省の態度が非難された。保護観察所は文筆関係者と内務省検閲課の役人とを招いて、懇談会を開いた。これは直接にはどれだけ効果があったことか分らない。何故なら保護観察所へよばれた人々は殆どいつも唖になった。何か一言云えばそれを「観察」されて、思想的点をつけられるからみんな馬鹿のようになって、互の顔ばかりみている。この時も発言したものは直接関係者だけであった。この年六月宮本の父が亡くなった。作品を発表されなくなったことは、私の経済的安定を失わせたし、精神的にも打撃であった。私は落ちつかなく毎日を送った。夏頃、健康が悪くなって寝汗をかき、微熱を出した。獄中で結核にかかり、一時重患におち入ったことのある宮本は、私の健康回復法としてきびしい規律的生活のプログラムを与えた。そのプログラムには、夜十時就寝、一日三回の検温、正しい食事、毎日午前中に巣鴨拘置所へ面会にくること、などが含まれていた。これを三ヵ月ほど実行している中に、微熱は出なくなった。十二月に盲腸炎を起し、慶大病院で手術した。
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一九三九年(昭和十四年)
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三月。〔一〕昨年末の作品発表禁止がとけそうな気配があるといって文芸春秋が小説を依頼した。丁度宮本の弟が中国に出征させられたときであった。私は「その年」という小説を書いた。文芸春秋社で内閲に出した。そしたら各行毎に赤線が引かれて戻ってきた。線のひかれないところは「である筈だのに」とか「そうしている中に」とかいう文章でこれは纏まった言葉とも云えない。編輯者も私も苦笑してその原稿を保留した。六月頃、文芸春秋に「からたち」随筆四、五枚を書いた。これは発表された。七月中央公論に、三宅花圃と一葉とのことを書いた随筆を書いた。それも発表された。こうして理由なしに禁止された作品発表は、まだはっきりしたわけが分らぬ中にそろそろ印刷されはじめた。私は書ける間に出来るだけ書くという心持をもった。小説「杉垣」(中央公論)、「藪の鶯」、「清風徐ろに吹来つて」、「短い翼」等明治から現代までの日本文学の動きと婦人作家の生きてきた道を追求する仕事を文芸に連載しはじめた。この年は戦争の進行につれて軍需生産を中心とする日本経済の「軍需インフレ」の無責任な活況が起った。インフレ出版、インフレ作家というよび名さえ起った。しかし文学の実質は低下の一線をたどった。戦争遂行目的のために作家と文学の動員されることはますますはげしくなって「文芸家協会」は「文学報国会」となり、作家のある人々は、積極的に報道員となって中国に行った。日本の戦争の侵略的な帝国主義の本質とその戦争遂行のために治安維持法によって全人民に理性的な考え方と発言とを禁じている日本の現実に目をつぶって軍隊とともに中国を歩き廻ったとしてもそこにどんな人間らしい文学も生れないのは当然であった。文学の文学らしさをもとめる心持が同時にはげしく感じられてきた。この年は婦人作家の活躍した年といわれ、その理由は婦人作家の社会性が狭くて、自分の小さい生活と芸術境地を守りつづけてきているために、男の作家が軍事的社会風潮におしながされ、真実性のない長篇小説などを流行させているのに対して、一縷の芸術性を発揮したものと評された。「綴方教室」や「小島の春」のような素人の文学「女子供の文章」の真実性が云われた。しかしやがて、文学の最後の小石のような真実も戦争強行の波におされて婦人作家も南や北へ侵略の波とともに動くようになった。
執筆
三月。その年。(小説)
九月。杉垣。(小説)この初冬。(〔随筆〕)
まちがい。(〔随筆〕)
十一月。芭蕉について。(作家論)
十二月。おもかげ。(小説)ひろば。(小説)
単行本。明日への精神。(実業之日本社)三月の第四日曜。(金星〔堂〕)
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一九四〇年(昭和十五年)
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この年の日本の国内にどれほど軍事的な窒息的な空気がはびこっていたかということは、この年〔十〕月に書いた小説「朝の風」をよむとしみじみわかる。人間の理性と自然な情感に立った日常生活が失われてきたと同時に、文学はいよいよ人間性を失った。すべての文学は戦争鼓吹の文学でなければならなかったが、戦争そのものが非人間的な本質だったから従軍作家の誰の書くものもそれぞれの作家の文学的力量を生かしきらず、その人びとの人間の味さえも殺した。私小説にゆきづまり、日本文学の社会性のせまさ、弱さに、自繩自縛されたいわゆる純文学者たちは、戦争という大事件とそのヒロイズムによって、貧弱な文学の基ばんを拡げ新しくすることができるだろうと自分たちに期待したことは、幻想にすぎないことが証明されつつあった。一九三八年〔三〕月に石川達三が中央公論に発表して禁止された「生きている兵隊」という小説はそのテーマが戦争の野ばん性に圧倒されてしまう人間性を描いていた。そのような作品さえもそこに人間性の諸問題が残っているという意味で情報局は禁止した。これは日本の全人民が、「考える」能力を持つ者であることを情報局と軍部が否定した意味であった。
ヨーロッパではドイツファシズムの侵略が大規模に展開しつつあった。前年九月ワルソーに突入したナチス軍は四〇年の春ノルウェーに進出し、五月マジノ線を突破して一ヵ月の後フランスを降伏させていた。第二次ヨーロッパ大戦は次第にクライマックスに向いはじめた。日本の天皇制権力とその軍閥は目前のドイツファシズムの勝利に誘惑されて野心を夢みはじめた。
執筆
一月。朝の風。(小説)生活者としての成長。(評論)
三月。昔の火事。(小説)
五月。夜の若葉。(小説)
十月。若き精神の成長を描く文学。(評論)昭和の十四年間。(日本評論、日本文学入門へ)
十一月。世代の価値。(評論)
十二月。今日の文学の諸相。(文芸評論)
その他文芸時評、婦人問題に関する執筆多数。
単行本。小説集『朝の風』(河出書房)
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一九四一年(昭和十六年)
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この年一月から再び作品発表を禁止された。日本の権力は戦争反対どころか、「自主的」な「文化的」なすべての心情を非国民的と扱うようになってきた。すべての新聞、ラジオ、出版物は嘘と分っている戦争煽動に動員された。そして十二月八日に太平洋戦争に突入した。十二月八日の払暁、戦争に対して反対の見解をもっていると思われていた千余名の人々が日本中で検挙された。私は十二月九日理由不明で駒込署に留められ、〔翌年〕三月検事拘留のまま巣鴨拘置所に送られた。六月下旬警視庁の調べがはじまった。何でもかでも共産主義の宣伝のためにしたという結論におちつけようとする調べであった。六月下旬に検事が来たとき私の調べの事情をはなし、自分が全く作為的な調書をとられていること、もし公判になれば、自分はそれをひるがえすということを話した。検事はそういう調べについて困ったことだといったまま帰った。七月二十日すぎ、その年の例外的な暑気と女監の非衛生な条件から、熱射病にかかり、人事不省になった。生きられないものとして運び出されて家へ帰った。三日後少しずつ意識回復した。しかし視力を失い、言語障害がおこり、翌〔々〕年春おそくはじめて巣鴨へ面会に行った。その時はじめて着た着物が、おもかった心もちが忘れられない。作家でこの年投獄された者は私一人であり中野重治は非拘禁のまま執拗に警視庁の調べをつづけられた。評論家、ジャーナリスト、歌人、俳人で検挙された人たちも少くなかった。
執筆
この年は文学評論集『文学の進路』(高山書〔院〕)、『私たちの生活』――婦人のための評論集――(協力出版社)が出版された。
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一九四二年(昭和十七年)
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この年はまだ健康を回復せず眼も見えず、読書もひとりでできなかった。十月中旬に、宮本の誕生日のためにやっと大きな字でみじかい詩を書いた。読書もできず、手紙さえも自分で書けない状態は私の感情を圧縮した。珍しくこの年はいくつかの詩ばかりを書いた。これは文学的作品であるよりも訴えであり、嘆息であり、つまり門外不出の作品である。
日本の軍事行動はシンガポール占領、ビルマ、ジャワ占領と、最も侵略の拡大された時期であった。軍需産業の病的な拡大のために企業整備がはじまり、民間の日常必需品の統制が開始された。前年十月に成立した東條英機内閣はこの時期、彼等にとってもっとも甘美なファシスト独裁の夢をみていた。
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一九四三年(昭和十八年)
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健康状態如何にかかわらず私の作品は発表禁止であった。経済的に困窮した。
宮本顕治が一九四〇年に結核のために重態になったが、幸い、回復できた。この年の夏チブスにかかり、再びなおることができた。
太平洋戦争第三年目で真珠湾の幻想は現実によってくずされはじめていた。日本の支配権力は戦争反対者に対する弾圧をますます激しくし、単に自由主義に立っている人々をも入獄させた。文化、自由、平和、階級、侵略というような文字はすべての出版物から消された。一億一心、八紘一宇、聖戦、大東亜共栄圏というような狂信的用語が至るところに溢れた。文学はこれらの言葉の下に埋没した。
この緊迫した状態のもとで宮本の公判がはじまった。当時宮本は公判廷に出ても席に耐えないでベンチの上に横になる程疲労していたが、公判は続行された。すでに他の同志たちは分離公判が終結していた。被告宮本ただ一人、傍聴者は弁護士と妻と看守ばかりという法廷であった。戦争に気を奪われ左翼の存在を忘れさせられた人々は殺人の公判には傍聴に入っても治安維持法の公判廷には姿を見せなくなった。治安維持法の意味を知り、公判に関心をもつ人々は危険をおそれてあらわれなかった。
翌年の〔十二〕月一審判決まで不思議に人影の少い、しかし意味の深い「公開裁判」の法廷がひらかれつづけた。
私としては実に多くのことを学んだこの公判の期間をとおして、一九四三年一月スターリングラードにおいて死守の命令をうけたナチス軍が消息を絶ったというニュース、反ファシスト軍がイタリアのシチリア島に上陸して戦果をおさめ、ムッソリーニが辞職したニュース、イタリアの降伏などはまるで息づまる格子の間からさしこむ明るい光のようにうけとられた。ファシズムは勝利しないという希望が強くわいた。しかもその喜びは決して表現することを許されないものであった。私は公判廷と弟の家事との間を往復して暮していた。
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一九四四年(昭和十九年)
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