年譜
宮本百合子
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一八九九年(明治三十二年)
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二月十三日。東京市小石川区原町で生れた。父中條精一郎(建築家)母葭江。
生後十ヵ月から満三歳まで両親と札幌で育った。
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一九〇五年(明治三十八年)
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東京市本郷区駒本尋常高等小学校へ入学。父はイギリスへ行っていた。小さいベビー・オルガンが一台うちにあって、茶色絹のバラの花簪をさした若い母がそれを鳴らし、声はりあげて「ウラルの彼方、風荒れて」と歌った。軍艦のついたエハガキに、母がよく細かい字をぎっしり書いてイギリスの父へやっていた。正月で、自分はチリメンの袂のある被布をきせられていた。母が急に縁側へ出て槇の木の下に霜柱のたっている庭へ向い「バンザーイ! バンザーイ!」と両手を高く頭の上にあげ、叫んだ。声は鋭く、顔は蒼く、涙をこぼしている。自分はびっくりして泣きたくなり、だが母についてバンザイと云った。そしてわきに並んで手をあげたら袂がそれは重かった。――日露戦争はこんな形で自分の記憶にのこっている。
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一九〇七年(明治四十年)
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〔六月〕、父かえる。
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一九一〔一〕年(明治四十〔四〕年)
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本郷誠之尋常小学校卒業。お茶の水高女入学。
夏休みに小説の処女作を書いたが、いつの間にか何処かへなくしてしまった。
段々手当りばったりにいろんなものをよみはじめた。「平家物語」「方丈記」西鶴(!)などを盛にうつしたり、口語訳にしたりして表紙をつけ手製本をつくった。
与謝野晶子の「口語訳源氏物語」のまねをして「錦木」という長篇小説を書いた。(尻きれとんぼ)森の魔女の話も書いた。
両親たちは自分たちの生活にいそがしい。家庭生活や夫婦生活のこまかいことがませた自分に見え、親たちを批評するような心持になった。
お茶の水の女学校もつまらない。陰気な激しい心になって暮した。よく学校へ行くのをやめたり早退けしたりして上野の図書館へ行った。佐竹ヶ原の草の中へころがっていたりもした。昔の婆やが酒屋の裏にスダレを下げて賃仕事をしている、そこに一日いたこともある。
一葉だの、ワイルドだのの影響があった。母が或る時土産に二冊本をくれた。アラン・ポウの傑作集だった。以来、時々これで本をお買いと一円か二円くれた。
女学校の四年ごろからロシヤ文学に熱中しだした。トルストイが最も自分を捕えた。西洋史で教わったローマ法王グレゴリー〔七〕世を主人公にした史劇みたいなものを書いた。わが幼稚なる衒学時代の開始、日本の文壇は人道主義が盛だった。
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一九一六年(大正五年)
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女学校五年、祖母の棲んでいる福島県下の田舎へ小さい時から毎年行っていた。その印象をあつめて「農民」という小説を書いた。女学校卒業、目白の女子大学英文予科へ入学。
「農民」を書きなおし、「貧しき人々の群」という題にした。二百枚ぐらいあった。母によんでもらい、仲よしにもよんで貰った。坪内雄蔵先生のところへそれを持ってゆくことになり、『中央公論』の瀧田樗蔭に会うことになり、少しちぢめて九月の『中央公論』に載せられた。薄謝と書いた紙包に百五十円入っていた。
女子大は一学期でやめていた。
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一九一七年(大正六年)
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「日は輝けり」(中央公論)「三郎爺」(〔東京日日〕)「地は饒なり」(中央公論)「一つの芽生」
単行本『貧しき人々の群』が玄文社から出版された。
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一九一八年(大正七年)
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単行本『一つの芽生』が新進作家叢書の一部として新潮社から出た。
「禰宜様宮田」(中央公論)
人道主義的作家見習いにはなったが、当時の所謂文壇とはちっとも交渉がなかった。わずかに久米正雄、芥川龍之介などを知るだけで、自分が文壇の中へ入ろうとは思っていなかった。
民族的滅亡に追いこまれているアイヌのことを書きたいと思って北海道へ行った。三月から八月まであっちこっちアイヌ村を歩いた。八月に父が札幌へ用事で来て、一緒に帰る汽車の中でアメリカへ出かけるがついてこないか、と言った。行く気になった。九月二十六日東京を出発した。
十一月十一日、ニューヨークの小さなホテルの露台に立ってヨーロッパ大戦休戦当日の光景を見下ろした。
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一九一〔九〕年(大正〔八〕年)
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ニューヨークで結婚。
「美しき月夜」(中央公論)
十二月帰朝。
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一九二〔〇〕年(大正〔九〕年)
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この年から足かけ四年ばかりは泥沼時代だった。小市民的な排他的な両親の家庭から脱出したつもりで四辺を見まわしたら、自分と対手とのおちこんでいるのは、やっぱりケチな、狭い、人間的燃焼の不足な家庭の中だった。
檻の野獣のように苦しんだ。対手をも苦しめた。対手は十五年アメリカで苦労したあげく、休みたがっていた。僅かに「黄昏」「古き小画」などを書いた。
確か大正十一年の夏と思う。山川菊栄などが実際の発起者で、与謝野晶子、埴原久和代、其の他多勢とロシヤ飢饉救済会の仕事をした。
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一九二三年(大正十二年)
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関東大震災の被害は直接は受けなかった。
三宅やす子の『ウーマンカレント』を中心とし小規模の救援事業をした。
野上彌生子とこれらの数年間に知る。
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一九二四年(大正十三年)
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春ごろから少し書くことができるようになった。「心の河」「イタリアの古陶」等。
湯浅芳子を知る。
夏、離婚した。長篇「伸子」の第一部「聴き分けられぬ跫音」を書き、『改造』へのせた。
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一九二五年(大正十四年)
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「伸子」を三、四度にくぎって『改造』へ連載。他に「吠える」「長崎紀行」「白い翼」などを書いた。
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一九二六年(昭和元年)
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「伸子」完結。「一太と母」(女性)「未開な風景」(婦人公論)等。
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一九二七年(昭和二年)
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「伸子」を単行本にする為に手入れをしながら「高台寺」(新潮)「帆」(文芸春秋)「白い蚊帳」(〔中央公論〕)「街」(女性)「一本の花」(改造)等を書く。
十二月初旬、湯浅芳子と共にソヴェト・ロシアへ出発した。十二月十五日モスクワに着く。
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一九二八年(昭和三年)
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単行本『伸子』が改造社から出版された。春「モスクワの印象」(改造)。秋「赤い貨車」(改造)をモスクワから送った。
この夏、八月一日、故国で次弟英男(二十一歳)が自殺した。彼が姉にあてて書いたまま出さなかった最後の手紙に、何ものをも憎むなという文句があった。
彼の予期しなかった死=没落と日夜目撃してその中に生きるソヴェトの燃えつつ前進する新社会相は、両面から自分の眼を開いた。ひとりで闘ってきた闘いを結びつけて行くべき方向と形と意味が理解された。政治的行動に、これまでと全く違う見方を得た。芸術家として自分はどこまでも現社会制度との非妥協性をすてない。憎む心をすてない――と。
この秋、洋々たるヴォルガ河を下り、湯浅とコーカサス、バクー油田、ドン・バス炭坑見学をした。
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一九二九年(昭和四年)
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正月から四月いっぱい、猛烈な胆嚢炎でモスクワ〔大学〕第一附属病院に入院した。
五月から十一月末までベルリン、ウィーン、パリ、ロンドンなどを見物した。ヨーロッパの資本主義国の文化の過去と現在の老朽はおどろくべきものだった。本当は、医者にチェッコのカルルスバード鉱泉へ行けと言われたのだが金がなかった。
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一九三〇年(昭和五年)
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二月「ロンドン印象記」(改造)。秋「子供・子供・子供のモスクワ」(改造)を送る。
『戦旗』に二三原稿を送った。或るものはついたが或るものはつかなかった。
初夏、クリミヤ及びドン地方の大国営農場「ギガント」へ見学旅行した。
湯浅は日本へ帰ることになり、自分はどうしようか迷った。遂に帰ることにきめた。
十月二十五日モスクワを立ち、十一月〔八〕日東京着。
十二月〔中旬〕、全日本無産者芸術団体協議会作家同盟に加盟した。
平凡社から『宇野千代集』と合冊で『中條百合子集』が出版された。
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一九三一年(昭和六年)
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「三月八日は女の日だ」(改造)「スモーリヌイに翻る赤旗」(大阪毎日)「ソヴェト五ヵ年計画と芸術」(ナップ)その他ソヴェトに関する印象、紹介などを書く。又三月には田村俊子、野上彌生子と合冊で『中條百合子集』が改造社から出版された。
一月。作家同盟中央委員になり、〔七月〕常任中央委員になった。
九月。プロレタリア文学運動では、日本の半封建的な社会事情によって婦人の社会上、文化上の重荷が非常に多く文学上の成長もはばまれている。この状態を特別考慮して婦人の、特に働く婦人、農村における婦人の文学的成長を助ける意味で「婦人委員会」が組織された。同時に作家同盟では、農民文学に対する委員会、児童文学に対する委員会、青年の文学的創造力を指導するための委員会、朝鮮、台湾等の植民地の文学を、それぞれの民族文化との関係に於ける独自的発達を支持するための委員会が組織された。私はこの婦人委員会の責任者となった。
これらの委員会が組織されたことはプロレタリア文学運動が日本文学の歴史の中ではじめて労働者とともに、婦人、児童、農民、植民地の人々等の文化上の存在権を確認した出来ごとであった。私はこれらの委員会の重要な本質を理解することができた。しかし、婦人委員会の活動を広汎に活溌に具体的に指導してゆくことは、私の当時の経験では困難なことであった。しかし婦人委員会ができてから小説、詩の分野で若い作家詩人がいくつかの仕事を発表するようになった。『女人芸術』その他協同主催の文芸講演会などでは、特に婦人委員会の社会的文学的意味が理解され、文学を愛する婦人のための激励となった。
十月。「全日本無産者芸術団体協議会」は芸術団体の他に科学者、哲学者、教育者、社会医学関係の団体をも包括する「日本プロレタリア文化連盟」となった。満州事変と云われた日本帝国主義の満州侵略戦争がはじまり、日本の専政権力に反対するプロレタリアは、世界の国々の反ファシズム運動と結合しようとした。日本プロレタリア文化連盟の結成もこの角度から重要な意味をもった。作家同盟も団体加入した。各参加団体の中に組織されていた各委員会が協議会を持ち、婦人協議会の責任者となった。日本プロレタリア文化連盟からは、参加団体それぞれの機関紙の他に、「プロレタリア文化」が発刊された。この月党の組織と結合した。
十一月。婦人協議会から勤労婦人のための雑誌刊行が計画された。勤労階級の婦人のための雑誌としては、これまで『戦旗』があり『婦人戦旗』が発刊されはじめていたが、それをやめて『働く婦人』が発刊されることになった。これは婦人協議会から編輯部を構成して各団体が独特な能力で編輯に協力してゆくやり方であった。この『働く婦人』の編輯責任者となった。作家が雑誌の編輯事務にたずさわるということは、当時の私として苦痛なことであった。けれども階級的な作家の一つの経験であると思って翌年一月の創刊号から三月号まで編輯した。それ以後は佐多稲子が責任者となった。即ち四月に私が検挙されたことが責任者の交替をもたらしたのであった。この年は
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