非常に多くの紹介・啓蒙の文筆活動を行った。旅行記『新しきシベリアを横切る』内外社。
[#ここで字下げ終わり]

一九三二年(昭和七年)
[#ここから1字下げ]
二月。宮本顕治と結婚。本郷動坂に家をもった。
〔四〕月七日。文化団体に対する弾圧。私は駒込署に検挙され(〔八十〕日間)、宮本顕治は非合法生活に入った。
九月。日本プロレタリア文化連盟婦人協議会会議中、全員検挙、一ヵ月検束された。
日本のファシズムと侵略戦争に反対し、勤労階級の社会的発言の一つの現われとして活動をはじめた「日本プロレタリア文化連盟」参加の各団体は三月下旬の全国的弾圧のために、重大な破壊をうけた。同時に勤労階級の政党である共産党に対する惨虐な抑圧はますます激しく、指導者の拷問虐殺が行われるようになった。
この二つの事情が連関して当時のプロレタリア文化運動は勤労者の生活の現実がそうであったように、文化的な方法を通して勤労階級の政治的な抗議や要求も行われる場合がふえてきた。日本のように民主生活の諸形態がなかった国では、ファシズムのもとでこのような合流は余儀なかった。非合法の党機関紙が自由に読めないために、読者もプロレタリア文化出版物のどこかに彼らの階級的意識を指導し、鼓舞し組織するモメントを発見しようと努力した。編輯者もまた不如意な階級的出版の状態からできるだけ読者の要求をとりあげたく思った。
一九三二年の後半期から三三年にかけて日本のプロレタリア文化運動が著しく政治的偏向をもったということが今でも一つの先入観になっており或は偏見となっている。そしてこれがプロレタリア文学運動誹謗の種子とされているけれども、この日本風な現象については日本風な専政支配の野蛮さと、大衆の生活に多様な階級的文化の組織がなかったこと、僅かに文化サークルが組織されかかっていたばかりであったことなどを考え合わせなければならない。
十月。左翼に対する弾圧激しく『働く婦人』『プロレタリア文化』『プロレタリア文学』等の発行は杜絶えがちになった。岩田義道が警察の拷問によって虐殺された。
    執筆
小説「鋪道」を『婦人之友』に連載中、検挙によって中絶。
[#ここで字下げ終わり]

一九三三年(昭和八年)
[#ここから1字下げ]
二月二十日。小林多喜二が築地署で拷問虐殺された。通夜の晩に小林宅を訪問して杉並署に連れてゆかれたが、その晩はもう小林の家から何人かの婦人が検束されて来ていて、入れる場所がないということで帰された。
〔『大衆の友』号外〕小林多喜二特輯号を編輯した。
十二月〔二十六〕日。宮本顕治は九段上でスパイのため売り渡され、検挙された。スパイは当時日本共産党東京地方に活動していた渾名亀こと高橋であった。

一九三三年は文学的には殆ど活動不可能の状態であった。左翼に対する弾圧は、ジャーナリズムの上にプロレタリア作家の活動する余地を与えなかったし、私個人の生活事情から言っても落ち着いた日は一日もなかった。プロレタリア作家同盟が解散しようとする前で、指導的な中央委員の間に激しい意見の対立を生んでいた。ごうごうとして蔵原惟人、小林多喜二、宮本顕治などの文化、文学運動の指導上の欠点として「政治主義」が批判され、山田清三郎、林房雄その他の人々がプロレタリア作家同盟を壊滅させるために精力的に働いた。
ソヴェト同盟が第一次五ヵ年計画を完成してその過程でインテリゲンチャ、技師、学者等従来プロレタリア階級の発展に対していくらか距離をもっていた社会的分子を完全にプロレタリアの社会的達成の協力者とすることができた。この現実に立ってソヴェトではプロレタリアの作家同盟が解散され、同伴者作家、農民作家等のグループを広汎に統一した全ソ作家同盟が組織された。そして社会主義的リアリズムの創作方法が提唱された。日本ではこの社会主義的リアリズムの創作方法に対する解釈を、全く芸術における階級性の抹殺という方向で行った。そして日本のプロレタリア文化、文学運動の「政治主義」を批判する口実とした。
社会主義的リアリズムのこのように歪曲された解釈は、一般にさまざまな形でのリアリズム論争をまき起した。武田麟太郎の風俗描写的リアリズムをそのはじめとして。――すべてのリアリズム論争の特徴は、階級性の抹殺であった。佐多稲子、江口渙、私等は以上のような「自己批判」に納得できず、作家同盟の常任委員会で常に当時の書記長その他の見解に不一致であった。しかし理論的に未熟であり、運動に経験のないために客観的には明瞭に誤っている結論に従うほかなかった。
    執筆
一月。一連の非プロレタリア的作品。
八月。「マクシム・ゴーリキイの人及び芸術」小説「小祝の一家」(文芸)
[#ここで字下げ終わり]

一九三四年(昭和九年)
[#ここから1字下げ]
一月。中旬に麹町署に検挙されている宮本顕治の奪還計画というものが新聞に公表された。二三日たって私が検挙された。
二月。作家同盟解散。
六月。一月以来駒込署、小松川署、杉並署、淀橋署と移されていたが、六月十三日、母危篤のため急に帰された。肺壊疽をわずらって順天堂病院に入院していた母は、私が病院にかけつけて十五分ののちに死去した。私は半年の留置場生活で健康を害して、心臓衰弱に苦しんだ。この年はプロレタリア芸術家の転向の問題が注目をひいた。村山知義の「白夜」その他、運動と個性の分裂をモメントとして権力に屈したインテリゲンチャの告白がいくつもの小説となってあらわれた。治安維持法そのものの非人道性をとりあげた作品はなかった。これはどういう形で日本のインテリゲンチャ及び勤労者が、その時以来ひきつづき一九四五年まで治安維持法にいためつけられつづけたかということを理解するための歴史的な鍵である。これらの問題についていくつかの文学評論、批評を執筆した。
    執筆
一月。小説「鏡餅」(新潮)
八月。鈍根録(改造)
十月。ツルゲーネフの生きかた。(文〔化〕集団)
十一月。夫婦が作家である場合。(社会時評)
十二月。バルザックに対する評価。
[#ここで字下げ終わり]

一九三五年(昭和十年)
[#ここから1字下げ]
〔前年十一〕月。淀橋区上落合の家に引越した。〔同十二月初〕旬、夕刊で宮本が市ヶ谷刑務所に送られたことを知った。大急ぎで綿入を縫って面会差入れした。一年の警察生活で宮本は白紙のまま起訴された。一週間に一遍ずつ市ヶ谷に面会にゆくことが日課になった。宮本がともかく警察で殺されないで市ヶ谷に行ったということは私を大変安心させた。小説の書ける気持になった。小説「乳房」を中央公論に発表した。(〔四〕月)この小説は後にソヴェトで革命文学の文集に集録された。
五月〔中〕旬、前年の母の死によって中絶した取調べの続きだといって淀橋署に検挙された。
十月。「日本共産党の外郭団体であるプロレタリア作家同盟の活動に従事し、共産主義を宣伝した」という理由によって起訴された。市ヶ谷刑務所におくられた。
    執筆
この時、評論集『冬を越す蕾』が入獄中に出版された。
一月。「バルザックから何を学ぶか」を『古典の再認識』のために執筆。作家は何でも書けばそれが現実を反映するというリアリズム論への反駁として。
一月。不満と希望。(社会時評)
一月。村からの娘。(社会時評)
四月。新しい一夫一婦。
五月。乳房。(中央公論)
九月。小説「突堤」(これは淀橋署に拘留中に書いた。)その他。
[#ここで字下げ終わり]

一九三六年(昭和十一年)
[#ここから1字下げ]
一月。市ヶ谷刑務所から東京地方裁判所に通って予審がはじまった。
一月三十日、父の急死によって葬儀のために仮出獄した。
二月。二月二十六日事件を裁判所で知った。小使がつい、予審判事に戒厳令という言葉を言ったために。
三月。下旬、予審終結。ひどく健康を害していたために市ヶ谷からじかに慶応大学病院に入院した。
六月。公判、懲役〔二〕年、執行猶予〔四〕年を言い渡された。予審と公判とを通じて私は文学の階級性を主張することができなかった。
七月。保護観察所によって保護観察に附せられた。警視庁の特高課長であった毛利基が主事をしていた。毛利基は宮本の関係した党内スパイ摘発事件のとき、スパイを潜入させその活動を指導するための主役の一人であった。
はじめて保護観察所によばれたとき、この毛利が鉈豆煙管をさげて出てきて、「どうだね、悪いことをしたと思うかね。」と言った。そのときの感情は生涯忘れないだろう。
八月。マクシム・ゴーリキイの伝記を書きはじめた。熱中して三分の一ほど書いたが、健康がつづかず中断した。
一九三二年から四年間、たびたびものの書けない状態におかれたことは、私に啓蒙的な文筆活動を文学的にたかめてゆく機会となった。書けない間、自分の書いたもの人の書いたもの、文学というものなどについて自然、深く考えるようになったから。――集中して仕事をするために弟の家族と生活することの不自然を感じて、十二月下旬、目白に引越すことにした。
    執筆
五月。わが父。
七月。芸術が必要とする科学。
マクシム・ゴーリキイの発展の特質。(文芸評論)、逝けるゴーリキイ。(文芸評論)、ゴーリキイの描く婦人。(文芸評論)
九月。作品のテーマと人生のテーマ。(文芸評論)
十月の文芸時評
十月。「或る女」についてのノート。(文芸評論)
十一月。自然描写における社会性。(文芸時評)、暮の街(社会時評)
十二月。未開の花。(社会時評)、含蓄ある歳月。(作家論)
[#ここで字下げ終わり]

一九三七年(昭和十二年)
[#ここから1字下げ]
この年七月、蘆溝橋事件を挑発のモメントとして日本の天皇制権力は中国に対する侵略戦争をはじめた。日本の全文化が軍部と検事局思想部の露骨な統制のもとにおかれるようになった。翼賛会の初代の文化部長岸田国士、つづいて同じ位置についた高橋健二その他の人々は、文化の擁護のために何事もなさなかった。一九三〇年代のはじまりに「文学の純芸術性」を力説した菊池寛、中村武羅夫等の人々が、この時期に率先して文化の軍事的目的のために奴隷化をあっせんしたことは歴史的な事実となった。また、プロレタリア文学理論に反対して「文芸復興」を主張した林房雄などが、いち早く上海でビールに酔って報道記を書いたことも注目される。「ペンクラブ」も国際的連帯をたって「日本ペンクラブ」となり、日本浪漫派の人々は亀井勝一郎、保田与重郎、中河与一を先頭として「日本精神」の謳歌によって文飾されたファシズム文学を流布した。女詩人深尾須磨子はイタリーへ行って、ムッソリーニとファシズムの讚歌を歌った。私は目白の家で殆ど毎日巣鴨へ面会にゆきながら活ぱつに執筆した。表現の許される限りで、戦争が生活を破壊して、小学校の上級生までが勤労動員させられはじめた日本の現実を描きたいと思った。この年に書いた小説はどれも、作者のその基本的な熱望の上にたっていた。しかし表現はむずかしくてどの作品もかろうじて全篇を流れる気分として戦争に対する反対を表し得たばかりであった。文芸評論でいわゆる日本的なものの本質の究明とエセヒューマニズムとの闘いが意図された。
この年の一月目白三ノ三五七〇の家に引越した。一九三一年の秋の末から、段々宮本と会うことの多くなった頃住んでいた家が、じきそばにあった。新しく引越した家は朝夕の出入りにその二階やのわきを通る位置にあった。目白の家でこの年はどっさり執筆した。
    執筆
一月。子供のために書く母たち。(社会時評)、ジイドとそのソヴェト旅行記。
二月。若き世代への恋愛論。パアル・バックの作風その他。文学における今日の日本的なもの。「大人の文学」論の現実性。鴎外・芥川・菊池の歴史小説。鴎外・漱石・藤村など。三月の第四日曜(小説)。ジイドとプラウダの批評。
四月。ヒューマニズムへのみち。
五月。山本有三氏の境地。
六月。猫車(小説)。迷いの末。(横光利一厨房日記評)藤村の文学にうつる自然。
単行本。この年竹村書房から小説集『乳房』、白揚社から評論集『昼夜随筆』
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング