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この年〔十二〕月に宮本の第一審判決があり、関係被告中ただ一人無期懲役を求刑された。直ちに〔上告〕した。この判決決定の日、裁判長は法廷の慣習を破って判決決定書の主文を先によんだ。このことは誰の眼にも妥当な法律の適用でないという感情をもたせた事実を語っている。前後二十余回に亙って宮本が病苦をおして「懇々」という形容詞をつけてよいほどスパイ摘発の意味と事実を論告したにもかかわらず、主文にあらわれた判決理由は十一年前宮本が検事局によって起訴された理由と九分通りまで同じに、事実と異った捏造によって書かれていた。このことは私に天皇制ファシズムの法律の本質をしんからのみこませた。
日本全土に空襲の恐怖と疎開さわぎがはじまった。七月サイパン島で全員戦死の発表が行われ、侵略戦争の現実の姿がむき出されはじめた。この月に東條内閣は辞職して小磯、米内の協力内閣ができた。この年のはじめ国民総動員が行われ十七歳以上を兵役に編入することにした。次第に破局に近づくけいれん[#「けいれん」に傍点]があらわれはじめた。
弟の家族は疎開した。私が残った。八月にパリが陥落した。アンドレ・モーロワの『フランス敗れたり』が日本でひろく読まれたのは、これから間もない頃であった。この本は政界裏のぞき的なサロンゴシップで真にフランスの悲劇と人民の反ファシズム闘争を反映したものではなかった。
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一九四五年(昭和二十年)
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一月三十日東京に本式の空襲がはじまった。それから〔五〕月まで私の住んでいた本郷区の各所が連続的に破壊され、〔四〕月には巣鴨拘置所だけを残して周辺が焼野原となった。その空襲の翌朝、同居していた人に頼んで拘置所を見に行って貰い、それだけが残ったことを知った。治安維持法被告の非転向者は空襲がはじまると何時も監房の戸をかたく外から錠をかけられた。他の被告の監房の鎖ははずされた。私は宮本が「爆死」しなかったことをよろこんだ。〔五〕月初旬に大審院上告が却下された。無期徒刑囚として宮本は網走刑務所に移された。
この空襲と宮本の網走行の異常な伴奏として五月二日のベルリン陥落、つづいてドイツ無条件降伏が伝えられた。日本のどんなに多くの人間がその頃胸をとどろかせて朝々の新聞を拡げたろう。新聞には地図入りでベルリンに迫るソ連軍と連合軍の進路が示された。北フランスでどんどんと追いはらわれてゆくナチス軍の敗退の足どりがしるされた。レニングラードの市民の英雄的な闘い、遂に陥落しなかったモスクワ。ひとつひとつの民主的人民の勝利の前進が日本の狂気のようなファシズム下の生活の中へもひびきわたってきた。
日本では本土決戦というようなことがいわれはじめた。
網走へ行って住もうと思って、七月私は福島県の弟の家族の疎開先まで行った。その時はもう津軽海峡の連絡船が動かなかった。
八月六日広島に、九日長崎に原子爆弾がおちた。広島に応召中だった宮本の弟達治が負傷し、死んだが死体はみつからなかった。八月十五日の正午、天皇はラジオで日本の無条件降伏を宣言した。ポツダム宣言は受諾された。急速な武装解除が行われた。九月〔二〕日にミズリー艦上で降伏文書調印が行われた。
十月四日、連合軍総司令部の指令によって、治安維持法の撤廃、政治犯人の釈放、言論、出版、集会の自由が命令された。
十月十〔四〕日、宮本が網走刑務所から解放されて東京へ帰ってきた。府中刑務所の予防拘禁から解放された徳田球一その他の同志たちの間に活動が開始された。『アカハタ』第一号がパンフレットの形で発刊された。日本にはじめて共産党の機関紙が合法的に出版された。代々木に党本部の事務所がもたれた。私も入党した。
十二月、この本部の二階広間の畳の上で、合法的第一回、実質的には第四回大会がもたれた。五百余名の人々が集った。この大会は二年後の一九四〔七〕年第六回大会がもたれたとき、凡そ十万近い党員を代表する数百名の代議員の出席している光景を予想できなかったほど、小規模なものであった。しかし、長年の弾圧と辛苦の果に集ったそれらの人々の雰囲気には感銘ふかい歓喜と新しい勇気とがみちていた。
日本の勤労階級は公然と自身の政党をもつようになった。勤労者の文化的創造性も、自身の組織がもてるようになった。新しい民主主義の立場に立って日本民主主義文化連盟が各種の民主主義文化団体の協議組織として出発した。民主主義文学の団体として新日本文学会が組織された。
十二月、宮本と松江市、米子市、大阪、山口市等の講演旅行に行った。
十二月に新しい日本の民主的文学へのよびかけとして「歌声よおこれ」を新日本文学創刊号のために書いた。近代文学のために「よもの眺め」を書いた。主としてジュール・ロマンの「ヨーロッパの七つの謎」の書評であり、資本主義国家が第一次大戦後欧州の社会主義化をおそれて、ナチスに投資したことがどれほどの悲劇を招く原因となったかということ、また、ジュール・ロマンの「善意の人々」は理性的な方法を知らなかったために、どんなに善意を翻弄されたかということから私どもの学ぶべき点を書いた。
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一九四六年(昭和二十一年)
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極端な帝国主義日本を武装解除し、民主化しようとする混乱と多忙とが始った。文化の面では文学の新運動ばかりでなく、戦争中もっとも戦争協力を強いられたラジオ、新聞の民主化に着手され、GHQの協力によって日本のラジオの民主化のために民間各界の代表をあつめた放送委員会が組織された。その委員の一人にえらばれた。ポツダム宣言によって日本の婦人が選挙権を得た。婦人の政治的、社会的啓蒙、民主化活動も同時にとりあげられて、CIEの個人的顧問であった婦人たちを中心として佐多稲子、壺井栄、山本安英その他の婦人芸術家をも包括する婦人民主クラブが組織された。その下準備のために多くの時間がさかれた。
三月、総選挙が迫るにつれ、特に婦人のために社会状勢のあらましを知らせる『私たちの建設』という小型の本を書いた。共産党の人民の政党としての意味を説明するラジオ放送をした。選挙期間にはいく度も婦人と作家の立場から政治的な演説をした。私の懇談的、講演的な演説は、いわゆる政治演説とは自ら違った。
八月、岩手、秋田地方へ朝日主催の自由大学講師として宮本と二人で出席した。
九月、四国地方の党会議に出席をかねて旅行した。
この年は文化、生産の各場面に民主化のための闘争が起って、十月から十二月のはじめまで、もっとも高い波であった。年末に新日本文学会の第二回大会で「一九四六年の文壇、文学」を報告した。
執筆
一月。春桃。
二月。逆立ちの公私。私たちの建設。(婦人のための啓蒙)“どう考えるか”について。
六月。信義について。
七月。ある回想から。播州平野。(長篇小説)
八月。青田は果なし。
九月。風知草。(連載第一回)
十月。琴平。現代の主題。風知草。(第二回)
十一月。郵便切手。図書館。風知草。(第三回)
単行本。『伸子』〔第一部〕。(文芸春秋社)私たちの建設。(実業之日本社)
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一九四七年(昭和二十二年)
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一月から〔八〕月まで中央公論につづけて「二つの庭」を書いた。これは二十数年前に書いた「伸子」の続篇であり、また、或る意味での日本インテリゲンチャの歴史ともいえる。十月から展望に「二つの庭」に続く「道標」を執筆している。
この年前半期は大体一ヵ月を三分して三つの仕事をした。創作、講演、集会への出席。そして〔四〕月選挙のときは岡山へ行った。これは私の健康にとって全く無理であった。七月に過労のため血圧が高くなりまた視力があやしくなった。そのため三ヵ月ほど休養した。
後半期は講演を全廃した。組織の会合にも欠席することを許して貰った。小説だけにしたこの仕事の割あては今日もつづいている。
一九四七年度の毎日出版文化賞が「播州平野」と「風知草」に与えられた。
執筆
一月。二つの庭。(中央公論)作家の経験。
三月。政治と作家の現実。小説と現実。
五月。一九四六年の文壇。風知草。(文芸春秋社)
六月。本当の愛嬌ということ。
十月。道標。(展望連載)
十一月。真夏の夜の夢。デスデモーナのハンカチーフ。
単行本。『伸子』〔第二部〕。(文芸春秋社)播州平野。(河出書房)作家と作品。(山根書店)
貧しき人々の群。(新興出版社)歌声よおこれ。(解放社)幸福について。(雄鶏社)
宮本百合子選集第一巻、同第三巻。(安芸書房)
新しい婦人と生活。(民主主義文化連盟)真実に生きた女性たち。(創生社)婦人と文学。(実業之日本社)
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一九四八年(昭和二十三年)
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中心的な執筆は、小説「道標」である。民主的文学の分野には、昨年末から批評と創作の協力的前進の問題が起っており、勤労者の文学サークルの間にはリアリズムのみなおしの問題も起っている。これらの文学上の問題は、昨年四月以来次第に表面に出てきた日本のファシズムの危険と昨今の戦争挑発の現象とからみあっている。批評と創作の協力的向上の問題についての評論「両輪」を新日本文学〔三〕月号に書いた。戦争挑発と闘い、平和を確保するためにすべての文化人、作家、芸術家が共同の組織をもち、労働階級の組織と協力する必要がはっきりしてきた。小説の他に「平和のための荷役」(婦人公論)、「世紀の分別」(改造)、「日本婦人の国際性」の新しい展開について『女性線』に書いている。
単行本。
宮本百合子選集第四巻、同第五巻。(安芸書房)二つの庭。(中央公論社)女性の歴史。(婦人民主クラブ)女靴の跡。(高島屋出版部)道標(第一部)。(筑摩書房)
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[#地から1字上げ]〔一九四八年十月〕
底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
1981(昭和56)年5月30日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「現代文学全集 第五十六巻」改造社(1931年までの年譜)
1931(昭和6)年3月発行
「宮本百合子研究」津人書房
1948(昭和23)年10月発行
※見出しとして立てられた年表示の内、「一八九九年」などの西暦の部分はすべて、ゴシックで組まれています。
※「〔〕」で囲まれた箇所は、底本の編集に際して、明らかな誤りとして訂正されたものです。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2007年7月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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