も憎むなという文句があった。
彼の予期しなかった死=没落と日夜目撃してその中に生きるソヴェトの燃えつつ前進する新社会相は、両面から自分の眼を開いた。ひとりで闘ってきた闘いを結びつけて行くべき方向と形と意味が理解された。政治的行動に、これまでと全く違う見方を得た。芸術家として自分はどこまでも現社会制度との非妥協性をすてない。憎む心をすてない――と。
この秋、洋々たるヴォルガ河を下り、湯浅とコーカサス、バクー油田、ドン・バス炭坑見学をした。
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一九二九年(昭和四年)
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正月から四月いっぱい、猛烈な胆嚢炎でモスクワ〔大学〕第一附属病院に入院した。
五月から十一月末までベルリン、ウィーン、パリ、ロンドンなどを見物した。ヨーロッパの資本主義国の文化の過去と現在の老朽はおどろくべきものだった。本当は、医者にチェッコのカルルスバード鉱泉へ行けと言われたのだが金がなかった。
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一九三〇年(昭和五年)
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二月「ロンドン印象記」(改造)。秋「子供・子供・子供のモスクワ」(改造)を送る。
『戦旗』に二三原稿を送った。或るものはついたが或るものはつかなかった。
初夏、クリミヤ及びドン地方の大国営農場「ギガント」へ見学旅行した。
湯浅は日本へ帰ることになり、自分はどうしようか迷った。遂に帰ることにきめた。
十月二十五日モスクワを立ち、十一月〔八〕日東京着。
十二月〔中旬〕、全日本無産者芸術団体協議会作家同盟に加盟した。
平凡社から『宇野千代集』と合冊で『中條百合子集』が出版された。
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一九三一年(昭和六年)
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「三月八日は女の日だ」(改造)「スモーリヌイに翻る赤旗」(大阪毎日)「ソヴェト五ヵ年計画と芸術」(ナップ)その他ソヴェトに関する印象、紹介などを書く。又三月には田村俊子、野上彌生子と合冊で『中條百合子集』が改造社から出版された。
一月。作家同盟中央委員になり、〔七月〕常任中央委員になった。
九月。プロレタリア文学運動では、日本の半封建的な社会事情によって婦人の社会上、文化上の重荷が非常に多く文学上の成長もはばまれている。この状態を特別考慮して婦人の、特に働く婦人、農村における婦人の文学的成長を助ける意味で「婦人委員会」が組織された。同時に作家同
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